■「桜桃の味」アッバス・キアロスタミ

桜桃の味 ニューマスター版 [Blu-ray]

 土埃が舞う道中,一台の車を運転する中年男バディ.彼は,街ゆく人々に声をかけ,車のなかに誘い入れてはある奇妙な仕事を持ちかける.「明日の朝,穴の中に横たわった自分に声をかけ,返事があれば助けおこし,返事がなければ土をかけてほしい.そうすれば大金を君に渡そう」.人生に絶望したバディの自殺幇助の頼みを,車内に招かれたクルド人兵士,アフガン人の神学生らはみな拒絶する….

 埃が舞う中,静かに走る車.運転する中年男バディは,街行く人々に声をかけ,高額な報酬と引き換えに自殺を手伝ってくれるよう頼む.クルド人の兵士やアフガニスタン出身の神学生は拒否するが,最後に乗せた老人バゲリは奇妙な依頼を承知の上で,自身の過去について語り始める.物語は淡々と進行し,イランの乾燥帯の美しい風景が映し出される.昼下がりから日没まで,時間の流れを描き,物語は夜雨の降るシーンで終わる.イランの春の雨が降る描写は,春の訪れを象徴していると言える.絶望しても人は変化できる.自殺欲求がなくても,人生で誰しも直面する苦悩に共感できる要素が本作にはあるだろう.

 異なる世代の交流によって生まれる無常観は,美しい世界と時間の流れが絶望を洗い流す様子を表現している.バディの自殺の動機は語られず,結末も明確ではない.映画はむしろ,自殺に対する人々の考えや対処法に焦点を当てているようだ.バゲリ老人はかつて自分も自殺を考えたが,今は生かされていることに感謝し,そのきっかけとなった出来事をバディに語る.最後に,ペルシャ詩人の詩を朗誦し「約束は守る」と告げて2人は別れる.バゲリ老人が語った「桑の実」「桜桃」の味は,アッバス・キアロスタミ(Abbas Kiarostami)にとって映画そのものであると言える.

あんたの目が見ている世界は本当の世界とは違う.見方を変えれば世界は変わる.幸せな目で見れば,幸せな世界が見えてくる.人生は汽車のようなものだ.前へ前へただ走っていく,そして最後に終着駅に着く.そこが死の国だ.死はひとつの解決法だが,旅の途中に実行してしまったらダメだ

 キアロスタミの映画はミニマリズムに向かって進化しており,要素の削除や強調を通じて特有の視点から生きる意味を描いた.彼は登場人物を見つけたら,時間をかけて共に過ごし,よく知るようにしていた.キアロスタミのメモは,頭の中にあったキャラクターではなく,実際に出会った人々に基づいている.彼は独自の視点から「生きる」意味を解説し,小さな幸せやポジティブな生き方,自然の神秘を称賛している.キアロスタミは政治には無関心ではなく,1970年代末のイラン革命や激動の時代を冷静に把握しようとしていた.ラストシーンには本編とは異なる映画の撮影シーンが挿入され,これは監督自身の日常や生きていることの歓びを表現しているかもしれない.

 桜桃の味は生きることの歓喜であると解釈できる一方,イラン政府の厳しい映画検閲の対策――宗教的な描写,政府批判,自殺描写など――へのエクスキューズが最大理由だろう.本作の撮影では,キアロスタミは,運転席か助手席に座った俳優をそれぞれ別々に撮影した.プロではない俳優たちに会話を促し,その反応を撮影することにこだわった.また,カンヌ国際映画祭で受賞した際,プレゼンターのカトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)から,ハグとキスを受けた.イランでは,血のつながりのない異性間の公の場での身体的接触イスラム政府によって禁止されている.キアロスタミは,テヘランの自宅に1週間戻ることがなかった.

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原題: TA'M E GULIASS

監督: アッバス・キアロスタミ

98分/イラン/1997年

© 1997 Abbas Kiarostami