▼『ロダン』菊池一雄

ロダン (1968年)

 一 ロダンと日本,二 人間ロダン,三 鼻のつぶれた男,四 青銅時代,五 歩く人,六 地獄の門,七 カレーの市民,八 ヴィクトル・ユーゴー,九 バルザック,一〇 肖像,一一 晩年のロダン,一二 ロダンの芸術,年譜・参考文献,あとがき――.

 刻にこそ真の姿を映し出す.そこには古典の理法のこだわりをいかに取捨するか,またやすみなく未来への歩みを続ける「彫刻」の厳しさを咀嚼したゆえの道であっただろう.オーギュスト・ロダン(François-Auguste-René Rodin)と日本の白樺派には深い縁がある.『白樺』に寄稿する文芸人たちは,ロダンの作品に躍動する生命力を見出し,その潜在的な哲理に息を呑み,荻原守衛高村光太郎は,ロダンの代表作《考える人》に感銘を受けた.荻原にいたってはロダン邸を訪れ,さらにその翌年,有島壬生馬も訪問した.有島はロダンと文通を交わすという幸甚を受けている.

 ロダンの後継者アントワーヌ・ブールデル(Antoine Bourdelle)は,ロダンの彫刻家としての時代を,ロダンが《青銅時代》を出す1876年までを指し,「分析と正確と研究の時代」と呼んだ.しかし,本書ではそれよりももっと前,《鼻のつぶれた男》(1864年)にロダンが近代彫刻に残した大きな足跡が最初に見出されるという.1864年ロダンは《鼻のつぶれた男》をサロンでの出品をめざした.しかし評価は散々で落選だった.貴族のために鑑賞用の彫刻が求められたサロンでは,低い鼻の醜男の彫刻など,唾棄すべき作品だったのである.この時ロダン24歳.以後,12年間の沈黙を守り35歳でイタリアを旅した翌年,《青銅時代》を世に出した.

 12年間の沈黙がロダン独自の人間の生命力の血潮,隆々たる肉付けのモデリング,豊かな造形美と劇的な内面表現を獲得した.しかし,時代を超越したかにみえたロダンだったが,時代と歩をそろえざるを得なかった部分も多々ある.ロダンが初めて注目を浴びたのは,間違いなく《青銅時代》からである.ここを分水嶺とするブールデルの見解はある意味では正しい.しかし,この作品は《鼻のつぶれた男》のじつに13年間の彼の苦闘時代の結晶であり,下積みの苦しい生活と,時代の激しい思想的動揺を,黙々として押し切ってきた,彼の捨身の制作であったことを忘れてはならない.

 《青銅時代》は最初,「自然に向かって目ざめていく男」と呼ばれた.敗北により,ロダンは一度丸裸にされたに等しい.1年半にも及ぶ制作期間を費やし,ロダンはそのモデルとして若いベルギー人兵士オーギュスト・ネイト(Auguste Neyt)を選んだ.ロダンは,粘土と格闘する中で,次第にモデルの外形が眼中から消えうせていったことを感じたという.そこには,人間の自然の魂を粘土に吹き込まんとする,相対する自分と粘土を媒介として立つ存在を感じたのであった.

 《青銅時代》は,輝くばかりの称賛を受けた.サロンも,ロダンのたくましい個性がギリシャ以来の古代彫刻の伝統技術を基盤に持ち,そこにフランスの近代文化の見事な融合がなされていることに驚嘆するほかなかったのだった.ロダンのこの技術と彫刻文化への造詣は,いかに彼が挫折と苦悩の中で学びを深めたといっても,到底,独学でなしとげられるものではない.後年,ロダンが大いに感謝したという人は,一介の石膏細工職人だった.

 20歳のころ,ロダンは彫刻家の助手や建築・装飾建築の下職としてやとわれ,技術を実地に身につけたことがある.生活に追われてやむにやまれぬ状況ではじめたこの仕事は,実はロダンのその後の彫刻の基礎を形作っていたのである.この頃,彼の手取りはまだ1日6フランにすぎなかった.同じ仕事場の同僚に,コンスタン・シモン(unknown)という石膏職人がいた.

 ある日,ロダンが庭からとってきた葉や菜をモデルにして1つの柱頭を粘土で作っていると,コンスタンが彼に言葉をかけた.

 「オーギュスト,お前のは駄目だよ.お前の葉っぱは皆平たく見える.だから本当らしくないのだ.葉の先をお前の方へ突き出るように作ってみたまえ.そうすれば,見た目に奥行の感じが出るのだ」

 「今後,彫刻をやるときには,けっして形を拡がりで見ないで,いつでも奥行で見たまえ.…中略…そうすれば,お前は"肉付け法"を会得したことになる」

 これが,ロダンが初めて会得した肉付け法の基礎中の基礎となり,自分の彫刻に絶対的な部分を占める技術となった.この理法は実際のところ,シモンもその極意を身につけていたわけではなかっただろう.あらゆる角度から観察して,人間の体の厚みを表現することに没頭して制作に打ち込んだ《青銅時代》は,徹底したモデリングに裏打ちされた彫刻となった.

 サロンの大家たちは一筋縄ではいかなかった.等身大の《青銅時代》は,彼らのもつ「彫刻」という概念からかけ離れたものだったからである.優美さ,繊細さ,高尚さを欠くこの等身大の男性像は,あまりにも荒々しすぎた.そしてリアルすぎた.そこで「実際の人間から型を取ったのではないか」と疑念を表するものが現れた.このような理屈はロダンを嫌うこじつけに過ぎなかった.というのも,後年《バルザック》をロダンが発表したときには,「自然ではない」と正反対の理由でロダンを非難した人々と同じ面子だったからだ.要するに,彼らは変革を嫌い,変化をもたらす者の台頭を恐れていた.それだけのことだった.

 文豪エミール・ゾラ(Émile Zola)は,印象派運動のもっとも熱烈な支持者であったが,1896年にフィガロ紙に発表した記事には,第1回印象派展から数えて20数年後のサロンは,すでに印象派の勢力に席捲されている,とある.当時のサロン様式は,アカデミスムと名づけられた.サロンの大家たちは,公衆から尊敬を集める術を心得ていて,競争相手が栄誉を授けられる地位につくことをいかなる手段を用いてでも妨害しようとしていた.公衆の趣味の多様化とともに様式も変化し,一見新しいものを受け入れる体制をとりつつあるように見えたのだが,無気力な"ずるさ"はサロン内にはびこっていたのである.

 ロダンは,何事にも,常に真正面から挑んだ.彼の仕事振りは,同時並行的に作品に手をつけながら,少しずつ修正していくというものだった.1つの作品にかかりきりになるなど,彼には考えられないことだったに違いない.未完の大作《地獄の門》は20年以上も制作と破壊が繰り返され,14世紀の半ばにエドワード3世(Edward III)の侵入軍によりカレー市の落城の際,6人の市民の英雄的行為をたたえた《カレーの市民》も試作が繰り返され,原型から建設までは9年を必要とした.ロダンは作品を構想する際,テーマの取材を戯曲的要素,象徴的要素に求めた.しかし,本書で提示されるのは,ロダンの感動的な傾向とその題材がいかに近代文芸を反映しようとも,それは彫刻としての一義的な意味にはなりえない,ということである.19世紀の巨匠ロダンと,われわれの間には「彼を否定し,訂正する」ことによって彫刻を前進させた人々がいたということである.

 ロダンの偉大さは,若い彫刻家が彼の周りに集い,成長してロダンの下を去っていったことに現れている.ただ去っていっただけではなく,いかに彼らの創作が評価されてきたかをみればよい.ロダンの彫刻には4つの因子がある,と看破したのもブールデルだった.それは,面,量,動勢,肉付けである.師の作品には,「巨大で密度があり,いろいろな面があり,動揺が激しい」と,この若き才能は心得ていた.

 ブールデルがロダンに師事した期間は,1886年頃から1902年頃までだった.トゥールーズの美術学校やパリのエコール・デ・ボザールに失望して後,ロダンに付いた.ロダンを敬愛していたが,ロダン的な作風から離れ,以後の社会的な表現として通用するモニュメンタル(記念碑的)な作風が後に示された.これを見たロダンが,「君は私を越えた」と語ったというエピソードは有名だ.

 ブールデルの彫刻界における評価を確実なものとしたのは,《弓を引くヘラクレス》であった.モンパルナス駅近くにあるブールデル美術館のほか,箱根彫刻の森美術館でも目にすることができるが,英雄ヘラクレスがステュンファーロスの怪鳥を今まさに射とめようと,ぎりりと弓を引き絞る雄雄しい様子は,緊張感が漲っている.そして,左右に限界まで開かれた両脚,巨大な弓とヘラクレスの肩甲骨は見事な扇形を形作っている.ロダンが人体構成にリアリズムを追求したのだとすれば,ブールデルは空間に人体の生み出す力動を巧みに配置したものであり,それがブロンズの周りの空気に膂力を伝播させている.まさに圧巻である.やや面食らうのは,ロダンは弟子の大成を無邪気に悦んだということだ.1909年のプラーグでブールデルの彫刻展が開かれた際,ロダンは次のように語っている.

今でも,たまたまブールデルのアトリエへいく機会があると,やはりわたしは非常な悦びをおぼえます.自分の勉強が自分にこういうものだと予測させた肉づけをブールデルのアトリエで見かけるときには,わたしの驚きはなんといったらいいか,じつに発見です.…中略…ああ!未来は,じっさいわたしたちのものだった!

 ロダンの天衣無縫さは,語弊を恐れずにいうならば,不可解ですらある.《鼻のつぶれた男》から《青銅時代》にいたるまで,辛酸を嘗め尽くしてきた彼が,なぜかくも弟子の成功を喜べるのか.因縁のサロンにおいてブールデルはロダンの好敵手と認知されたのであった.20世紀前半に活躍した彫刻の名手――シュネッグ,デボア,ベルナール,デスピオ,ベルギー人ミンヌ,イタリア人ロッソなど――がロダンのアトリエに出入りしていたこと自体,壮観といえるのだが,ロダンは「弟子は自分の至らなさをカバーしてくれる」として,けろりと話すことのできる人だった.

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原題: ロダン

著者: 菊池一雄

ISBN: -

© 1968 中央公論美術出版