▼『白昼の死角』高木彬光

白昼の死角 (光文社文庫)

 明晰な頭脳にものをいわせ,巧みに法の網の目をくぐる.ありとあらゆる手口で完全犯罪を繰り返す“天才的知能犯”鶴岡七郎.最後まで警察の追及をかわしきった“神の如き”犯罪者の視点から,その悪行の数々を冷徹に描く.日本の推理文壇において,ひと際,異彩を放つ悪党小説.主人公のモデルとなった人物を語った秘話を収録――.

 後混乱期の金融犯罪「光クラブ事件」をモチーフにした悪党小説.山崎晃嗣(東大法学部在学)の創始した光クラブは1948年開業,その巧妙な手口で法の網を巧みにかいくぐった.初めは厳しい取り立ての高利貸であったが,銀座に進出し,東大生社長として成功を収め,広告で出資者を引き寄せる.しかし,GHQ物価統制令の影響で起訴され,社長の山崎は不起訴に成功するものの,3,000万円の債務不履行に追い込まれた.「光クラブ」事件は当時,「アプレゲール(戦後)世代の典型」として注目を集めた.彼らは旧体制の価値観では理解しがたいモラルの台頭を象徴し,エリートでありながら未熟な新興金融成金業者として認識されていた.

 1949年には物価統制令違反容疑で摘発され,資金繰りに行き詰まった山崎は同年11月,自虐ながら「貸借法すべて青酸カリ自殺 晃嗣 午後11時48分55秒呑む.午後11時49分ジ・エン」と,“ジ・エンド”まで書くことのできなかった遺書を残し,社長室で服毒自殺した.彼の遺書は「芝居性」に富んでおり,「人生は劇場だ.ぼくはそこで脚本を書き,演出し,主役を演じる」という傲岸な言葉は『マクベス』の「人生はしょせん歩く影,憐れな役者」を意識したものであった.本書は,戦後の東大法学部生を中心とした架空の学生金融会社「太陽クラブ」の残党である鶴岡七郎を中心に展開する.鶴岡は法の盲点を衝き,手形詐欺などあらゆる手段で完全犯罪を繰り返す「天才的知能犯」であった.小説は彼の視点から冷徹にその悪行を描写し,後半では実在の事件からの取材を基にしたオリジナルの物語が展開される.

 この小説は1960年に発表されたが,これまでの本格推理小説とは異なり,経済要素を豊富に取り入れた.当時隆盛を誇った松本清張の社会派推理小説に真っ向から挑戦した.鶴岡の手法は,十分な情報収集をもとに「一滴の血も流さず」に犯罪を行うものであり,これに対して松本清張のある著書が引き合いに出され,「子供騙し」とまで作中で評されている.登場人物たちは知識や格言,故事に基づいて事実を強く断定し,単純で俗っぽい人間観や男性優位主義の女性観が顕著.物語には企業が手形をパクられ,サルベージ屋(ヤクザ)に鶴岡を襲撃させる場面,鶴岡自身がヤクザとの関係に縛られる描写もある.鶴岡の妻は彼の罪を知りつつも,従って耐える一方で,愛人は鶴岡の悪事に共鳴し,彼を支えるような形で物語が進む.このような男性優位のステレオタイプ的女性像は現代の小説ではあまり見られない.

 隅田たちが京橋署に検挙される容疑は,利子不払いの詐欺罪と,物価統制令違反という微妙な違法性であるのが印象深い.検事が逮捕にあたり古めかしい贓物牙保罪――現在の「盗品等関与罪」に該当する――を適用する場面など,法律用語の変遷や現代の法制度に触れつつ,物語が緻密に構築されている.時代的な背景を反映しつつも,詐欺の対象が大企業であるという点や,鶴岡の手法が義賊的な要素を持つなど,痛快的な面もある.時代背景を取り入れながらも,経済要素と社会派の視点から犯罪と倫理の境界を描いた本書は,現代の経済ミステリーに先鞭をつけ,その異色性が際立つ悪党小説として,日本の推理文学において際立っている.

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原題: 白昼の死角

著者: 高木彬光

ISBN: 4334739261

© 2005 光文社