■「按摩と女」清水宏

按摩と女 [DVD]

 名物按摩の徳市・福市のふたりが新緑を連れて山の温泉場にやって来た.ふたりは盲人でありながらも驚くべきカンの持ち主.先を行く子供の人数や,男か女か,果ては職業までも言い当ててしまうというのだ.ある日,徳市は温泉場で東京から来た女に呼ばれる.どこか陰があるこの女から,徳市は何かを怖れている気持ちを感じる….

 の寒さも和らぎ,梅と桜がほころび始めた.陽だまりが心地よい季節がすぐそこまで来ている.年度は変わり,人の出会いと別れが刷新される季節でもある.作品の舞台は,新緑が匂うような晩春だろう.そこに盲目の2人の按摩が,陽炎のように現れ,いつものように去ろうとした.宿場を転々とする彼らにとって,生活の糧を得ることと旅をすること,それに伴う出会いと別れは,ほぼ日常化していたはずである.ところが,一人の女性を前に,按摩は自制を失うほど心が乱れた.衣擦れの音とその人特有の気配,鈴の鳴るような声の魅力を放つ都会の女性の輪郭を,按摩の不自由であるはずの眼は確実にとらえていた.相手を思うがゆえ,その距離感を広げて自分にも見えない遠くへ行って下さい,と懇願する按摩の切なる思いは,会者定離を体得しているはずの者でも心が盲いることの証だろう.出会いの中に別れはすでに兆していることを熟知しているはずの按摩が,千々に乱れた心に急き立てられるように女性を救うため奔走する.

 按摩の目には,彼女を乗せた馬車が走り去る影が,はっきりと「刻印」されていた――その想像を馳せる心情の描写があまりに叙情的で余韻を残す.按摩と女性の関わりのほか,山奥の温泉町の雰囲気が醸し出される人物の描写にも,何気ないところまで行き届いた「配慮」がある.クローズアップとフェードアウトを多用したカメラワークは,軟質な印象をフィルムに与え,温泉町の湯気が煙るような和やかさと,安逸を楽しむ客の様子も丹念に描くことで,長閑さに物語全体が浸っている.本作のシナリオは,清水宏の独創である.生涯で163本もの映画を監督した清水の映画の美点を見直そうという機運が,近年高まっている.しばしば“忘れられた巨匠”と評される清水は,同時期に助監督をしていた小津安二郎と比較されることも多い.女性の情緒を主体とした映画を数多く遺した溝口健二は,清水の映画の人物の「自然体」に着目し,清水の天才ぶりを称えていた.

 溝口の長廻しとも,木下恵介の繊細な人物描写とも,黒澤明の徹底した雄々しさの追求姿勢とも違う.フレームに美を散りばめながら,おだやかな風情が淡々と続く中に,役者の自然体が生き生きと表現されていることに評価が寄せられている.山あいの美しい情景に,白黒にもかかわらず新緑の鮮やかさを感じ取ることができる.しとどに濡れる蛇の目傘を差し,池のほとりに佇む女の美しさ.彼女が通り過ぎた瞬間に徳市は“東京の匂い”と頬を緩めたが,この抒情的な場面では,雨の匂いを喚起させるような静けさが漂う.伊豆の温泉に逗留することを好んだ清水は,温泉に浸かったり料理に舌鼓を打ったりしながら,映画と安穏な日常に通じる「間」と「嗜み」を愛していた.自然に,寛ぎ,楽しむ.その姿勢は,役者の演技にも求められた.俳優が台本をぼろぼろになるまで読み込み,役作りをすることを清水は評価しなかった.脚本の微細,また演技の作り込みよりも,即興的な演出を好んだ.できれば,役者には台本のマスター版を渡したくなかったという.

 登場人物の末路を知ってしまえば,予定調和が生まれる.それは不自然だと考えていたということだろう.清水宏は,天衣無縫な人だった.子どもを描くのに定評があったとされているが,これは俳優を説得して演技をさせることが面倒だったからだという.役柄のイメージに違わない子役をその気にさせることの方がよほど労のかかることに思えるが,「自分の言うことを聞く」という理由で子どもを多く起用することになったというから面白い.本作で子どもがはしゃぎ,悪戯をし,不貞腐れる様子さえも,生き生きと真に迫っている.按摩と女性の束の間の交流と哀別が物語の本軸をなすが,その周りを取り囲む日常風景に,自然な姿で生活する庶民の姿と,あたかも色彩感覚を呼び覚まされるような白黒のシルエットの濃淡が統一と調和を与え,山奥の大自然を感じさせる.もののあはれが邦画にとっての大きな財産であることを,しみじみ感じさせてくれる作品である.

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原題: 按摩と女

監督: 清水宏

66分/日本/1938年

© 1938 松竹