▼『限りなき魂の成長』ジョン・P・コッター

限りなき魂の成長: 人間・松下幸之助の研究

 お決まりの賛辞で厚く覆われた「人間・松下幸之助」を世界標準の視点で捉え直した,日本人には書けなかった斬新な幸之助像.生涯にわたる驚くべき成長と,一連の苦難を再検討し,松下幸之助の尋常ならざる業績を理解する――.

 志伝中の人ほど,客観的な評価が難しくなる.松下幸之助の経歴と業績を紹介した文献は山ほどあるが,賛辞で装飾されていない文献はほとんどない.本書は,その数少ない条件を満たしたビジネス史である.ジョン・P・コッター(John P. Kotter)は,ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)の冠松下幸之助講座リーダーシップ教授,1980年には33歳の若さで正教授に就いた.ビジネスリーダーには,特有の精神構造があり,それが企業のビジネス・ストーリーを作っていくと著者は信じていたが「マツシタコウノスケ」という聞きなれない人物の講座を受け持つと聞いて,腑に落ちなかった.史上最年少でHBS教授職に就いた自分には,やはり小粒の経営者の業績を研究する機会しか与えられないだろうか,と嫌な考えが頭をかすめたという.松下という人物に関する資料を読んで著者は驚いた.途方もない業績を実現したこの人物は,周囲の人物に人間的な成長をもたらし,それにともなって松下電器という企業を育て上げている.

おそらく,何より野心をかき立てられたのは,私が松下幸之助について,その後光や欠点を超えて,詳しく知るようになればなるほど,この人物が好きになっていったということだろう

 彼は,ある意味では何も持っていなかった.和歌山の紀ノ川のほとりに生まれ,4歳で極貧を経験し,5歳で兄を亡くし,6歳でさらに2人のきょうだいを亡くした.9歳で大阪の自転車店に丁稚奉公に出て,1918年に松下電器を創業する時には,両親と5人のきょうだいをなくしていた.27歳の時,10人いた松下の家族は全員死亡していた.たった一人,幸之助だけが生存していた.著者は,幸之助の物語は3つのレベルでとらえられると考えた.しばしば聖人のように振る舞う「公人としてのビジネスマン」,時に人を怒鳴りつけ,睡眠薬を常用し,愛人を持ち続けて4人の非嫡出子をもうけた「私人」の面,この2つの面よりも深いレベルで,ごくありきたりの懐疑精神ではとうてい理解できないほどの「信念から生ずる感情」.1950年代の電化製品で松下ほど成功した企業は,東京通信工業(後のSONY)と本田技研工業しかない,といわれた.井深大盛田昭夫のように裕福な環境や高等教育,本田宗一郎のように早くから技術開発に携わる経験が松下にもあれば,違った経営になっていただろう.

J・D・ロックフェラーの威圧するような個性だとか,ウォルト・ディズニーのカメラ映えするカリスマ性だとか,トーマス・エジソンの発明の才だとか,J・P・モーガンの抜け目のない金銭感覚だとか,…中略…シャルル・ド・ゴールの肉体的存在感だとか,理研の総帥,大河内正敏の学歴だとか,そういうものは何もない

 凡庸な人物,と誰でも松下の若いころを知っている人は考えていた.20代には体の弱さだけが目につき,30代の会社経営は常に火の車.しかし40代を迎えるころには,彼の経営理念に賛同する人の数は増え,企業規模は拡大する.業界人でない限り,特定企業がどれだけの収益を上げ続けているかを人は意識していない.本書が執筆された1996年時点では,松下電器の年間売上高は約7兆6795億円だった.2006年度の総売上高では初めて9兆円を超え,日立製作所に続き日本で2番目である.2007年3月期の売り上げは,単体:4兆7469億円,連結:9兆1082億円ということだが,これは2003年にアメリカ議会が提出したイラク戦争補正予算9兆円とほぼ同額であった.松下幸之助個人の境遇は,当時の日本人としては珍しいものではなかったが,巨大企業の創始者としては特異なものだった.多くの経営者が持っていたものを彼は持っておらず,松下の驚異的な人生は,謙虚な心で,経験と年齢にとらわれずに学び続ける精神がその土壌にあったということだ.本書で最も注目されるべきは,偉大な経営者を陶酔しながら著されていないことである.

出発点がこのように慎ましかったにもかかわらず,彼は成長に成長を重ねた.裕福になることがえてして傲慢さと冷淡さにつながる世界にあって,みごとなほど彼は人を堕落させる力に汚染されなかった.…中略…結論を言えば,彼があれほどの業績を挙げられた最大の理由はその成長にあり,知能指数やカリスマ性,特権,僥倖など,ふつう偉大な成功について回る諸々の要因にはないように思われる

 企業経営論の立場から,淡々と松下の人生とその企業の移り変わりを追いながら,経営哲学および伝記の両立を図ろうとする意欲が感じられる.松下は1989年に死去しているが,松下電器産業が創設されてから71年目に創業者が死去したことになる.享年94.敗戦の1945年を境とすれば,戦前27年,戦後43年ということになる.戦前は大正デモクラシー軍国主義にとってかわられ,戦後は日本経済が窮乏のどん底から高度成長期に突入し,大量生産―大量販売―大量消費のサイクルが確立した時代,ということだった*1.時代背景を踏まえ,「松下電器は人を作り,電気器具は人が作る」という,松下が事あるごとに社員に訓告していた言葉,そして「人はまた人が作るのだ」というのが,松下の信条であったことも自然と浮かび上がってくるのが素直なところだろう.「素直」は,松下が好んで書にしたためた言葉だった.2008年,松下電器産業は誕生から90年を迎えた.その4年後,創業者の寿命を抜いた2012年10月31日,1936年から続けていた一般家庭向用白熱電球の生産を終了した.1936年度は,松下電器産業株式会社として法人化した年であった.

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Title: MATSUSHITA LEADERSHIP,LESSONS FROM THE 20th CENTURY'S MOST REMARKABLE ENTREPRENEUR

Author: John P Kotter

ISBN: 4870313456

© 1998 飛鳥新社

*1 副田義也(2003)『死者に語る』筑摩書房,p.109参照