ハリウッド映画の脚本家として成功を収めつつあるリック.しかし,ふと「自分はどこで道をまちがえたのだろうか」と疑問を抱くようになる.弟のビリーが自殺して以来,父親は罪の意識に苦しみ,もうひとりの弟は悲しみに勝てずに落ちぶれていた.やがてリックの前に,次々と6人の女性たちが現れる.奔放な女性,別れを告げる妻,夫のいる女性…. |
ギリシア叙事詩では,文芸を司る複数の女神ムーサにエピグラフを捧げ幕を開ける物語が多くある.『オデュッセイア』では「詩の神ムーサよ,かの人をわれに語れ.あまたの艱難を体現したかの人を‥‥」.霊感の源泉を御する女神たちへの果てしない敬慕である.ハリウッド脚本家として成功した男の富・名声,個性的な6人の美女と順に交わす性愛――彼は魅力的な女性と出会うたび,紳士的な態度で好意を表すが,いずれの関係も短期で破綻する.
回想の中でしか彼女たちは微笑まず,喜びや悲しみの表情も,この男の記憶の奥へと追いやられていく.原題"KNIGHT OF CUPS"は,タロットカードによる正位置(誠実・好意)と逆位置(不誠実・裏切り)で,彼は自分の意思で女性との位置関係を入れ替える.膨大なモノローグで冗長な語りでありながら,身の処し方はプラグマティックでしかない.本作の冒頭に引かれるのは,ジョン・バニヤン(John Bunyan)『天路歴程』.妻子を捨て重荷を背に,破滅の町から巡礼に出発した基督者の「魂の研鑚」を描いた作品である.
魂が天の都へと辿り着くのであれば,文芸の女神ムーサが語りうる篤実な物語になりうるだろう.しかし,本作の主人公は所詮俗物であるので,破滅の町からせいぜい虚栄の市を経巡る寓話にすぎない.テレンス・マリック (Terrence Malick)による幻視画(ジオラマ)にロマンを見出すのか,主人公のおびただしい独白に不合理と女々しさしか甘受できないのか.どちらをとっても,世界観にパノラマ要素が与えられていないため,主人公をマージナル・マン――周辺人/境界人――としか理解できないのである.
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原題: KNIGHT OF CUPS
監督: テレンス・マリック
118分/アメリカ/2015年
© 2014 Dogwood Pictures, LLC