▼『敵討』吉村昭

敵討(新潮文庫)

 惨殺された父母の仇を討つ.しかし,ときは明治時代.美風として賞賛された敵討は,一転して殺人罪とされるようになっていた‥‥新時代を迎えた日本人の複雑な心情を描く「最後の仇討」.父と伯父を殺した男は,権勢を誇る幕臣の手先として暗躍していた‥‥幕末の政争が交錯する探索行を緊迫した筆致で綴る「敵討」.歴史の流れに翻弄された敵討の人間模様を丹念に描く二篇を収録――.

 学の経典『礼記』"不倶戴天"の意は,父の讐(あだ)は倶(とも)に天を戴かず.仇敵と同じ世界で生きることを自ら許さぬということだ.封建社会で美風とされた敵討は,武家社会の厳格な制度であった.肉親や主人など恩義ある目上の者を殺害された場合,その復讐を公認する制度であり,その実施には悲惨な犠牲を払うことも課せられた.敵討には,主君の許可を受けて「免状」を授けてもらわねばならず,主君より敵討の暇願い及び幕府の届出が受理され,本懐を遂げ帰藩するまで脱藩浪人の身分に落とされる.

 むろん,それで敵を討つことが保証されるわけではない.追手に恐れをなして逃亡を続ける不倶戴天の敵を,追跡者は流浪の身で追い続ける.仇敵を探し当てても,不幸にも返討ちに遭うことは珍しくなかった.時効はないが,長期にわたる追跡に疲れ果て,藩に戻ることもできず,家名は断絶され報復を断念することも多くあった.武士の当然の行為として儒学が讃える意趣返しも,実情として厳格な作法と手続きのもとに許されていたのである.敵討で名高い『曽我物語』『忠臣蔵』は,武士の名誉は品位と別ち難く,それを汚す者を決して許さぬ武家の理義を呈している.

 本書は,伊予松山藩士熊倉伝十郎が父と叔父の敵を8年越しで果たした「敵討」,明治に入り両親の敵を討った秋月藩士臼井六郎が「仇討禁止令」(明治6年)で司法の裁きを受けることとなった経緯を描く「最後の仇討」の併録.敵討が奨励されむしろ「道義」とされた幕藩体制と,武士身分が廃止され敵討は「殺人罪」に問われるようになった新政府体制で,同じ復讐行為を遂行する武士はいかに気構えし,信念を貫こうとしたのか.当然ながら,熊倉と臼井の行動原理に本質的な差はない.社会制度がいかに変容しようとも,怨嗟の念が彼らを駆立てる行動は同じである.

 武士の面目躍如を目的とする過酷な旅から,儒教により長年教化されてきた武家の慣習が,容易には変化しないことが読み取れる.「最後の仇討」では,臼井は殺人罪終身刑が確定したが,模範囚であったため10年で恩赦が与えられている.明治時代の敵討,時代の遺物を示す事例として義を果たした臼井に温情的な世論が多かったと記録にはある.敵討が合法であった時代と違法となった時代.13年かけて討取られた臼井の敵は,司法制度の整備された新時代で,判事となっていた.痛烈な皮肉である.明治政府が「敵討禁止令」を正式に発布したのは,明治6年2月であった.

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原題: 敵討

著者: 吉村昭

ISBN: 9784101117461

© 2003 新潮社