▼『暗号攻防史』ルドルフ・キッペンハーン

暗号攻防史 (文春文庫)

 暗号の歴史は,秘密を守ろうとする人間と暴こうとする人間との,暗号作成者と解読者との,果てしなき攻防戦といえる.本書は古代ギリシャの昔からインターネット全盛の今日まで,その攻防の歴史を集大成したもの.なかでも世界史に大きな影響を与えた暗号と,それに関わった人々のドラマを描いたくだりは詳細で,かつ面白い――.

 号の組み合わせは複雑であればあるほど,解読されにくくなる代わりに管理にも負担がかかる.1947年のトランジスタの発明,1958年の集積回路の発明などによって,複雑怪奇な暗号がアルゴリズムでプロテクトされることも可能になった.いまや,天文学的数の素因数分解を必要とする暗号の上を行く,「量子暗号」に期待が高まって来ている.量子暗号は,ハイゼンベルグ不確定性原理が採用されていることで,量子の状態を測定(盗聴)すると,量子の状態が変化するため,傍受の痕跡が残る.この原理は,「意味不明な文字の羅列」を特定のコードで解読すれば読み取れる,という従来の暗号開発とは視点を異にしている.将来,安全性を定量的に保証する完璧な暗号技術が実用化されるのだろうか.

 暗号とは,本質的な情報を意図的に隠ぺいし,解析(復号)しなければその情報を読み取れなくする技術のことをいう.その方法の推移は,単純な「換字式」のものから複雑な「ヴィジュネル暗号」「アナグラム」そして,「エニグマ」のような機械式暗号装置の開発に移行し,さらにはコンピュータで暗号鍵をしらみつぶしに解析する時代に突入した.より正確・効率的に,情報を正しい受け手に伝えるための技術は,傍受する側にとっては,より迅速に・確実に読み取る解析法の確立を迫られた.その繰り返しが歴史を重ねてきたことを,本書は豊富な事例と史的観点から,攻防してきたことを示してくれる.国防の立場にある賢い者は,古代より通信手段の有効性と危険性を熟知していた.それは同時に,効率的なものでなければならない.ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar)は,単純にアルファベットを換字する方式の暗号を好んで用い,実に1000年もの間,実用され続けた.これは,平文と暗号文を対応させて順序を入れ替えれば解読できるという古典的なものだった.英語であれば,最も頻度が高いアルファベットは"e"である.カエサル暗号の技術では,たとえば"k"の頻度が最も高ければ,それは平文の"e"を示す.この点に気づいたアラビアの解読者たちが,カエサル暗号を破った.

 16世紀のイングランド最高の暗号解読者トマス・フェリペス(Thomas Phelippes)は,エリザベス女王の暗殺と反乱を企てたとして,スコットランド女王であったメアリー(Mary, Queen of Scots)を処刑に追い込んだ.反エリザベス女王派であったアンソニー・バビントン(Anthony Babington)の陰謀に,メアリーが関与していることを23個のアルファベット,及び36個の語句を記号に変換した暗号をフェリペスは頻度分析により解読したのである.暗号学(クリプトロジー)は隠語の学問である.ギリシャ語のクリプト(隠れる)とグラフェン(記す)を語源とする暗号学は,カエサル暗号が破られた後,本来の姿を潜める「コード・システム」を模索し始めた.ヌル(冗字)といわれる無意味な文字を入れ,解読を撹乱する方法,同時にフランスのブレーズ・ド・ヴィジュネル(Blaise de Vigenere)が考案した多表式換字式と呼ばれる,複数のアルファベットを組み合わせるものが登場したが,周期性のあるコードを用いていたためこれも頻度分析に屈した.

 サイモン・シン(Simon Lehna Singh)が『暗号解読』で強調したように,暗号は軍事機密やインテリジェンスの領域で,熾烈な争いにより肥大し発展してきた.20世紀に入り,知の軍拡競争の寵児となったのが,第一次大戦期のドイツで10万台も稼働していたという「エニグマ("謎")」.ローターと呼ばれる回転盤が換字を行う暗号装置は,3つのローターを組み合わせれば1京を超えるパターンを生みだすことができた.50000000000000000000分の1といわれたエニグマ解読の可能性は,ドイツ軍の安心と怠慢を招く.いかなる極秘情報も,軍はエニグマを介して伝達することとしていた.だが,イギリスのアラン・チューリングAlan Mathison Turing)らの暗号解読機"the bombe"によって難攻不落のエニグマを落とし,その有益なインテリジェンスは「ウルトラ」と呼ばれた.ヨーロッパ全土を蹂躙していたドイツの指揮系統はイギリスに筒抜けとなり,ノルマンディー上陸作戦を阻むことはできなかった.

 本書は,このエニグマが破られるまでのドラマを,3人の若き数学者の試行錯誤,チューリングの悲劇的な最期,ドイツのエニグマと同様に暗号の黄金期を築いた日本のパープル,アメリカのハゲリン暗号機も解読されていたことを懇切に描写する.筆者ルドルフ・キッペンハーン(Rudolf Kippenhahn)は1926年に生まれ,数学と物理学,天文学を学びゲッチンゲン大学教授,マックス・プランク学術協会点天体物理学研究所長を経て,退官後は著作活動に専念している.1970年代から暗号の研究に取りつかれているが,人間と科学の歴史を,暗号の発展と攻防が明らかにしているという視点でのみ,歴史を取り上げる意義としているようである.

 情報の産業革命になぞらえられる現在の情報社会で,さらなる強力な暗号の実用化が図られる一方,ヨーロッパ議会でエシュロン問題が取り上げられ,政府機関があらゆる通信の傍受と解析がなされていく時代に突入した.マスタードガスが初めて使用された第1次大戦は「化学者の戦争」,原子爆弾が実用された第2次大戦は「物理学者の戦争」,第3次大戦が起きるとすれば,「数学者の戦争」になるだろうと予測されている.素因数分解を一定向関数とする「RSA公開鍵暗号方式」は,事実上の最高峰な暗号システムとされ,量子暗号はさらにその上を行く.量子力学はやすやすとRSA方式を打ち破り,いずれその強固さを逆に応用した暴き方を技術化する勢力が現れるだろう.数学と情報解析,量子力学といった学問とテクノロジーは,古代から未来へと累をなす人間の歴史と,「知られてはならない」側と「情報をつかまなくてはならない」側の鬩ぎあいが,あざなえる縄のように連綿と続いていく証左なのだ.

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Title: VERSCHLÜ SSELTE BOTSCHAFTEN

Author: Rudolf Kippenhahn

ISBN: 4167651025

© 2001 文藝春秋