▼『笹まくら』丸谷才一

笹まくら (新潮文庫)

 笹まくら…旅寝…かさかさする音が不安な感じ…やりきれない不安な旅.戦争中,徴兵を忌避して日本全国に逃避の旅をつづけた杉浦健次こと浜田庄吉.20年後,大学職員として学内政治の波動のまにまに浮き沈みする彼.過去と現在を自在に往きかう変化に富む筆致を駆使して,徴兵忌避者のスリリングな内面と,現在の日常に投じるその影をみごとに描いて,戦争と戦後の意味を問う秀作――.

 京・青山の町医者の息子として育った浜田庄吾は,旧制の官立高等工業学校の無線工学科を卒業し,無線会社に入った.先の大戦中の5年間,浜田は徴兵忌避のため家出.「杉浦健次」という偽名で北海道から九州,朝鮮半島にまで逃亡した.砂絵師やラジオ修理工として日銭を稼ぐ日々の挙句,20年後は縁故採用で私立大学の庶務課長補佐に落ち着いている.徴兵忌避を公には隠して大学の事務局に勤めているはずの浜田の周辺には,彼の昇進問題をきっかけに「新聞会」による経歴の暴露がなされ,左遷という格好で迫害が加えられる.

 その大学は文学部の全学生に「神道概論」が必須科目になっているような校風,丸谷才一が一時期奉職していた國學院大學がモデルであることは確かだ.国民皆兵主義すなわち国家権力を前に「逃亡」という形で反抗を試みる浜田は,逡巡し思索を重ねる.その1つの結論「国家の目的は戦争だ」.若く美しい妻を娶り,平凡ながら穏やかな生活を送る彼の前途に,学内政治のダイナミズムを方向づけるような暗鬱な影が射し込んでくる.

 戦前の官憲の目に怯えつつ暮らした放浪生活で,「杉浦」の魂を救済した女性・阿喜子との秘めたる記憶.彼女の死を告げる黒枠の葉書が「浜田」のもとに届けられた瞬間から,忌むべき過去との訣別などは蜃気楼であり,その黒枠の葉書は,二つ名を使い分けた男の過去の境界線を融かし接合させた.それは本作の技巧面に決定的に表れる.浜田と杉浦の独白は,突如として立ち上がり,入れ替わり立ち代わりこの男の内面を説明するのであるから.

 ヘンリー・ジェイムズHenry James)やジェイムズ・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce)に倣ったと思われる「意識の流れ」の技法が,おそるべき効果をあげている.表題は『俊成卿女家集』所収の越部禅尼の恋歌「これもまたかりそめ伏しのささ枕 一夜の夢の契りばかりに」より.浜田が杉浦となって国家体制に消極的な反逆を続けた期間は,1940年秋から1945年秋まで.秋笹がかさかさと音を立てる寂寞たる情景に,不吉と不安が広がっている.戦争体験を起点にあてどなく彷徨する個人の内面を,見事に描き出した傑作.

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原題: 笹まくら

著者: 丸谷才一

ISBN: 4101169012

© 2001 新潮社