戦争下の夏休み,父親といっしょに込み合う列車に乗り込んだ少年は,急な歯痛に襲われ,父に訴える.父は手にしていた祖父譲りの扇子を引き裂き,楊枝代わりにと差し出した…(「蘭」).日常の何気ない生活のひとこまから浮かび上がる人間存在の深さとかなしさを的確に描いた短篇11作品を収録――. |
広島市皆実町の醸造業を営む家に生まれた竹西寛子は,中国山地を水源とする太田川の支流,京橋川の近くで幼少期を過ごした.澄んだ水の川に遊び,流れ注ぐ海の波に戯れる.心が弾む一方,「理由のわからない不安におそわれ,そうしなければならないもののようにその不安にじっと耐えていた時間」がいまだに自分のなかで死んでいない,と随筆に書いた.本書に選ばれた短篇たちは,不穏な空気を肌に感じながら,それを論理的に解釈するほど成熟していない少年少女の眼がとらえる「世界」を描いている.
神社に奉納された神馬は,見物人からえさをもらって芸をする.見物人が誰もいないとき,えさをもらわずに芸をみせる馬を見つめる少女(「神馬」).少年ひさしの家は,兵隊宿にされることが多かった.ある日,ひさしは将校らに同行して彼らが表に出さない感情に触れる(「兵隊宿」).知人の保証人となったために破産した小父さんが,海辺の寒村に暮らしている.そこを訪れるひさしと母(「小春日」).若い女中ミヨは,家出して少女の家で働いていたが,母親に連れ戻され自殺した.耐えがたい生を捨てた女性の過去(「茅蜩」).表題作ほか11篇.
なにげない日常の移り変わりを,「未熟者」は決して見逃さず,繊細な心の動きのなかに記憶していく.この世界を変質させる外圧の存在,また維持されて当然に思われる風景が脆く崩れうるもの,という了解.後年,竹西は古今和歌集の「世の中は夢かうつつかうつつとも夢ともしらずありてなければ」を「あってないのが世の中.あるからないのが世の中.夢なのか.うつつなのか.言いさだめてみて何になろう」と訳している.理性と感性と現実感がシームレスな世界観が,短い物語たちを横断している.
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原題: 蘭―竹西寛子自選短篇集
著者: 竹西寛子
ISBN: 408747822x
© 2005 集英社