地方都市に住む幼児が,ある事故に巻き込まれる.原因の真相を追う新聞記者の父親が突き止めたのは,誰にでも心当たりのある,小さな罪の連鎖だった.決して法では裁けない「殺人」に,残された家族は沈黙するしかないのか?第63回日本推理作家協会賞受賞作――. |
紫式部の曽祖父は,子を思う心の闇こそが人の理性を惑わす悲しみを詠んだ.《後撰和歌集 雑一》「人の親の心はやみにあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(藤原兼輔).モラルハザードというより,ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)に代表されるリバタリアニズムの表裏を容赦なく指弾する小説.他者から見て彼我の行為が愚昧であるように見えたとして,個々人の個性の本来の活動範疇であるかぎり,愚行についての主観的判断と目的への外部からの介入――一般的推定を根拠とする――は必要ではない.何かを強制されることもない.ただし,個人領域を超えて社会的な関心を集める場合にはその限りではない.
ミルは,愚行を倫理的に非難することと法的罰則の対象とすることは慎重に区別しようとした.本書で章が進むごとにカウントダウンされるのは,「不慮」の事故で命を落とす2歳児の「終の瞬間」.痛ましい事故をお膳立てするかのように,事故現場に直接・間接的に関わった点在の群像――街路樹の根元に飼い犬の糞を放置した腰痛もちの男.樹木の診断を怠った強迫神経症の作業員.道路拡張のための立ち退きを拒否し続ける老人.環境保護活動で街路樹伐採に反対する主婦たち.運転の未熟さから路上に車を放置する娘.急患を装い時間外に診療を求める大学生.面倒な患者を受入れ拒否し続ける当直医――誰もが被害者と一面識もなく自身の利己的判断と言動の影響を想像すらしない.
誘導放出による増幅作用に基づき光線がレーザーに束ねられるように,その瞬間をもたらすことに誰もが加担したのは事実.にもかかわらず,刑罰に値するほどの反倫理性を誰も証明できず,法では裁けないのだ.当事者家族は途方に暮れる.だが,その不当をそもそも問う資格が自分にもないことを悟る「父」の驚愕――子を思う心こそ,個人領域に関する限り邪魔されない自由(愚行権)を憎むはずであるのに――脛にほんのわずかな傷ももたぬ小市民など,いるはずもない.そのうえで,救いの光が差し込むような結末の情景描写に,確かな洞察性が感じられる.
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原題: 乱反射
著者: 貫井徳郎
ISBN: 9784022646385
© 2011 朝日新聞出版