▼『天に遊ぶ』吉村昭

天に遊ぶ (新潮文庫)

 見合いの席,美しくつつましい女性に男は魅せられた.ふたりの交際をあたたかく見守る周囲をよそに,男は彼女との結婚に踏みきれない胸中を語りはじめる.男は,独り暮らしの彼女の居宅に招かれたのだった.しかし,そこで彼が目撃したものは…(「同居」).日常生活の劇的な一瞬を切り取ることで,言葉には出来ない微妙な人間心理を浮き彫りにする,まさに名人芸の掌編小説21編――.

 潮社の創立百年を記念した記念事業に,小説を百篇収めた『小説新潮』特大号の発刊というものがあった.文字数の制約は,原稿用紙にしてわずか10枚.秀逸な短篇小説は常に,短さの中に濃密な緊張感と存在感を結実させている.吉村昭は慣れない文字制限に対峙,3日間で一本の作品「観覧車」を書き上げた.「白刃で相手と対峙するような思い」の確信と快感が,本書所収の掌編小説21編に結ばれる.

 短さの中に意匠を表現しきれない苦しみも相当に伴ったはずだが,この著者はその文体と同様,未練がましく弁明しない.古文書の鰭紙(ひれがみ)に記録された人肉食の係累(「鰭紙」).高名な文人の葬儀に決まって現れる香典泥棒の老婆(「香典袋」).大老井伊直弼暗殺の首謀者とされる関鉄之介の持病の真偽を追う筆者と,関の子孫の交誼(「梅毒」).少年時代,東京都台東区の根岸で目の当たりにした女性の生涯の苛酷(「お妾さん」).

 取材のために各地に滞在すると,しばしば刑事に見紛われる奇妙(「偽刑事」).姉の葬儀で見事に聖歌を歌う男性には,忘れがたい見覚えがあった(「聖歌」).これら天空を自在に遊泳するような思いで書いたという作品の数々は,生々しくも瑞々しい人間の営みが,確かに眼前に展開されるという趣向.静謐な感銘という余韻が琴線と共鳴する,珠玉の作品集.

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原題: 天に遊ぶ

著者: 吉村昭

ISBN: 4101117454

© 2003 新潮社