▼『拒絶された原爆展』マーティン・ハーウィット

拒絶された原爆展

 95年の米・スミソニアン博物館の原爆展中止は記憶に新しい.負の歴史を巡る激烈な論争,原爆展企画から中止までの経過を,元館長自らが綴るドキュメント.日米の戦争観の差,ヒロシマナガサキ問題を再考するに最適の書――.

 ミソニアン・インスティチューションは1846年,イギリスの化学・鉱物学者ジェームズ・スミソン(James Smithson)の遺贈基金10万ポンドによってワシントンに設立された.協会には,研究機構科学博物館群が併設され,自然史,歴史技術,航空宇宙の博物館を擁している.航空宇宙博物館において,第二次大戦終結50年にあたる1995年に企画された米国初の原爆展(エノラ・ゲイ展).当時の館長マーティン・ハーウィット(Martin Harwit)は,ビキニ環礁における水爆の投下実験に参加,宇宙開発の歴史研究者としての功績により館長に任じられた.

 エノラ・ゲイを中心とする原爆展は,米国議会や在郷軍人会などの激しい反発と圧力により,展示企画中止に追い込まれた.ポリティカリー・コレクトをかざす「修正主義者」に敗北を喫したハーウィットは,エノラ・ゲイ機長だった退役将軍との折衝,アメリカ政府,マスコミ,また戦勝記念のような展示なら協力を拒む日本政府各方面への協調と妥協の様子を描き出す.ハーウィットは,歴史の文脈にエノラ・ゲイと原爆投下の道義性を位置づけ,広島・長崎以後に突入する冷戦と核の脅威の時代への警鐘を意図する展示会としたかったのである.展示が来館者に与える影響力を考慮し,本書では「正確さ」「バランス」「受け取られ方」を慎重に検討したことが述べられている.スミソニアン・インスティチューションの設立趣旨に沿う「人類の知識の増進と普及の意図」へ向けた努力である.

 ハーウィットが腐心した「展示会のストーリー」とは,空軍協会や在郷軍人会が神聖な愛国心で語る「ストーリー」とは対立軸に置かれる運命を歩む.日本の2つの都市への原爆投下と凄惨な被害は,「遺憾なこと」ではあるが,2発の原爆によって日本とアメリカの「さらなる被害は避けられた」.この論理で正当化される“殺戮”に対しては,自由と民主主義のために戦った「偉大なアメリカ合衆国」への崇拝が堅持されている.ヘイドン・ホワイト(Hayden White)が歴史叙述はしばしばナラティブの形をとり,それは体制を擁護する働きをもつ,と論じたように,歴史修正主義により,国民意識の再興が勘定に入ることは多々ある.

 彼らの行為によって,この国は大きな損失をこうむった.

 いまなお私は,1995年1月30日,すなわちスミソニアン協会評議員会が「最終幕」展の中止を決定したあの日にできあがっていた最終の展示計画を支持している.スミソニアン協会の新長官も新評議員もそうはしなかったが,私は,ジェームス・スミッソンならば,展示が計画どおり開催されるよう,私を支持してくれたはずだと確信している.つまるところ,博物館はスミッソンの遺志を継ぐ仕事をしようとしていたのである.

 やがて,いつの日か,おそらく「最終幕」展が再び形になる時がくるだろう.その時には,私は必ずやそれを守り通す用意を整えているはずである

 館長のみならず,展示会実現に尽力した博物館学芸員の学識はねじ伏せられ,展示台本第一稿「歴史の岐路:第二次世界大戦の帰結,原爆そして冷戦の起源」は,日本が始めた戦争の終結,というコンセプトへ変更された.さらに,スミソニアンの予算の75%を握る政治家たちからの圧力,スミソニアン協会長官のスタンスがハーウィット排除の様相を強め,ついに展示会そのものが中止という事態になったのである.ハーウィットは中止決定の同年,1995年5月に館長を辞任.このドキュメントは,かつて一次資料を多数目撃し,さらには作成にあたった元館長の立場から著された.原爆史をみる上で避けられぬ貴重な記録である.

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Title: AN EXHIBIT DENIED

Author: Martin Harwit

ISBN: 4622041065

© 1997 みすず書房