▼『湿原』加賀乙彦

湿原 (上)

 犯罪的な暗い過去を持つ自動車整備工の雪森厚夫(49才)は,病める神経に苦悩している女子大生池端和香子(24才)に愛情を抱きはじめた.1969年1月,彼女はT大生の恋人守屋牧彦の影響で大学紛争に参加,牧彦はT大学を占拠し,機動隊や和香子の父池端教授と戦い敗退した.'69年2月,雪森と和香子は,新幹線爆破事件の容疑者として逮捕された.悪魔的な捏造で引き裂かれる魂を描く――.

 い過去をもつ自動車整備工・雪森厚夫と,大学紛争の中でY講堂に出入りする精神を蝕んだ女子大生,池端和香子.1960年代終わり,2人は新幹線爆破事件の容疑者という予期せぬ冤罪で第一審死刑と無期懲役の判決を受ける.弁護士の献身的な弁護のもと,控訴審での無罪判決を勝ち取る長大な闘いのディスクールが始められる.

 「ボルシェビキが無くなってもロシア革命での民衆の行為は永遠不滅の事実として記憶される」と気炎を吐く過激派セクトに関与しながら,闘争の有効性に疑問を抱く和香子は,人生の半分を軍隊と監獄で過ごした雪森の強烈な生命力にしなだれかかる.肉体的にはマチエールな質感をもった雪森は,鷹揚な包容力と共感で和香子を包み込む.

 2人に迫るのは,正しい事実に交じる虚偽を巧みに論理に組み込んだ検察の権力.閉ざされた時を長年過ごした2人を,雪森の故郷に近い根釧の原野と湿原――死んだ植物が分解されずに泥炭となって堆積する湿原の写実的スケール――が癒す.リアリズム絵画を追求する野田弘志の高密度な挿絵によって,魂の救済の物語性に陰影がより濃く与えられている.

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原題: 湿原

著者: 加賀乙彦

ISBN: 402255391X;4022553928

© 1985 朝日新聞