▼『春琴抄』谷崎潤一郎

春琴抄 (新潮文庫)

 幼い頃から春琴に付添い,彼女にとってなくてはならぬ人間になっていた奉公人の佐助は,後年春琴がその美貌を何者かによって傷つけられるや,彼女の面影を脳裡に永遠に保有するため自ら盲目の世界に入る.単なる被虐趣味をつきぬけて,思考と官能が融合した美の陶酔の世界をくりひろげる――.

 二次「新思潮」を創刊,同誌に発表した「刺青」などが高く評価され文筆活動に専念した谷崎潤一郎は,1928年から1935年までの8年間に「豊穣の時期」を迎えた.文体は西欧的なスタイルから脱却し,典雅な大和気質を思わせる純日本的な文体を極めていく作品群――「蓼食う虫」「卍」「吉野葛」「細雪」「陰翳礼賛」――が生み出された.谷崎がこだわった市井の庶民的文化,支配-被支配の従属的嗜虐,母性を含めた「女性性」崇拝.

佐助が自ら目を突いた話しを天龍寺の峩山和尚が聞いて転瞬の間に内外を断じ醜を美に回した禅機を賞し達人の所為に庶幾しと云ったと云うが読者諸賢は首肯せらるるや否や

 盲目の三味線師匠・春琴に仕える奉公人・佐助の愛と献身の異常な行状,それはマゾヒズムを超越した官能を醸し,彼らの生涯を絶対的な倒錯の美に昇華する.琴三絃の世界で天才ともてはやされた盲目の春琴は,傲岸不遜で佐助をサディズムで弄ぶ.あるとき何者かに顔に熱湯を浴びせられ醜く歪んだ彼女の顔を,身辺の世話係の佐助にだけは見せねばならぬと春琴が語る刹那,佐助はそれに耐えかね自らの目を針で突き盲目となった.

御霊様に祈願をかけ朝夕拝んでおりました効があって有難や望みが叶い今朝起きましたらこの通り両眼が潰れておりました定めし神様も私の志を憐れみ願いを聞き届けて下すったのでござりましょうお師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼の底に沁みついたあのなつかしいお顔ばかりでござります

 これにより春琴の美貌は不滅となって佐助の内観に永久に刻み込まれ,主従関係を温存させながらの愛欲は完成したのである.満州事変から太平洋戦争へと戦禍が拡大しつつある時勢にあって,比類なき美意識を極め尽そうとする谷崎の耽美な文学観――日本回帰――は,時流に逆行する反射光となって人間の日々の営みを照らし出した.句読点や改行を大胆に省略した独特の文体で,被虐-嗜虐を超越した美的官能の巧緻が認められる物語態の傑作である.

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原題: 春琴抄

著者: 谷崎潤一郎

ISBN: 4101005044

© 1951 新潮社