▼『人間失格』太宰治

人間失格 (新潮文庫)

 「恥の多い生涯を送って来ました」.そんな身もふたもない告白から男の手記は始まる.男は自分を偽り,ひとを欺き,取り返しようのない過ちを犯し,「失格」の判定を自らにくだす.でも,男が不在になると,彼を懐かしんで,ある女性は語るのだ.「とても素直で,よく気がきいて(中略)神様みたいないい子でした」と.だれもが自分のことだと思わせられる,太宰治,捨て身の問題作――.

 弱と怯懦を文学に集約した作家による本書は,新潮社の文学作品中,累計部数でいえば永らく夏目漱石の『こころ』と人気を二分する.太宰治の畢生の大著にして,絶筆となった『グッド・バイ』を凌いで実質的な遺作と評され,インパクトのある題名と物憂げな太宰の風貌,『走れメロス』『お伽草子』などの代表作の親しみやすさと双璧をなす,赤裸々な「恥部の吐露」を文学として芸術的に結晶化された作品.そうした理解が,太宰文学を「弱さの文学」「脆さと葛藤の文学」と位置づける正当化の理由となっているように思える.

 本書は,物質的には何不自由なく生活する環境でも,幸福感を得ることのできない男が遺した3つの手記を挟んだ「はしがき」と「あとがき」から構成される.津軽でも屈指の地主の家に生まれ,実母の愛に餓え,きょうだいの多い家庭内での劣等感と疎外感が,表面的にはおどけながらその場をやり過ごすという「こけおどし」のような性格を形成した男の自殺未遂,薬物中毒,女性遍歴,精神病院の収容から廃人同然となり,「人間失格」の存在として不幸も幸福もなく,ただ過ぎていくだけの独白をもって終わる.「恥の多い生涯を送ってきました」の書き出しは有名だが,主人公の破滅的な人生には太宰自身の葛藤や苦悩が反映されている部分が多いとされ,「自伝的小説」とされる.熱狂的でコアな太宰信奉者は,太宰の赤裸々な挫折体験と女々しさ,母性本能をくすぐるような頼りなさがたまらなく共感を呼ぶのだろうか.井上ひさしは,「太宰の文章は読む人に対して『あなたのためだけに書いている』という印象を与える」と述べたことがある.なるほど,「僕は心底駄目人間です」「叱って下さい,嬲って下さい」と絶えず耳元で囁かれているような気がして腹立たしく思うのだが,そういった感情を呼び起こさせる修辞法の一つだろう.

 しかし,「太宰はダサイ」「太宰はクライ」と巷でいわれるように,太宰に対して嫌悪感を示し続けた文学者や評論家の言葉も数多く,また面白いものが多い.中野好夫は,太宰の短編「父」を「何も残らぬ」と斬って捨て,「太宰の生き方の如きはおよそよき社会を自ら破壊する底の反社会エゴイズムにほかならない」と糾弾,三島由紀夫は八代静一に誘われて「亀井勝一郎と太宰を囲む会」に出席したとき,「太宰さん,僕はあなたの文学は嫌いです」と堂々と言ってのけた.言われた太宰は一瞬言葉を失った後,反論した.その言葉には二説ある.「嫌いなら,来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけたという説,もう一つは「そうは言っても,三島さんはこの場所に来たんだから,僕を好きなんでしょう.やっぱり好きなんだ」と答えたという説.あるいは両方事実かもしれない.

 三島は,長年にわたり太宰をこき下ろす主張を繰り返した.自著『小説家の休暇』で,「私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は,一種猛烈なもの」「太宰の性格的欠陥」「第一に顔が嫌い,第二に田舎者のハイカラ趣味が嫌い,第三に『自分に適しない役を演じた』ことが嫌い」というようにこてんぱんに書いた.このように彼が太宰を毛嫌いしたのも根拠はあって,東大時代に『斜陽』を読んで作中の没落華族(貴族)の敬語と謙譲語の使途について,大きな違和感を持った.旧制学習院出身の三島には,虚構といえど看過できない瑕疵が『斜陽』にはあると感じられたのだ.

 太宰は気が弱い反面,意地っ張りで,志賀直哉(旧制学習院出身)にもやはり『斜陽』での貴族の言動を批判されたことに怒り,最晩年の「如是我聞」(死の数か月前に心中した山崎富栄の部屋で新潮社の編集者が口述筆記し死後刊行)で志賀を名指しでけなした.この当時,志賀直哉に牙を剥くことは,事実上の文壇追放を意味していたという.このことは,太宰が志賀を個人的に攻撃したというよりも,文壇の権威主義に楯突いたという意味もあるかもしれない.

 佐藤春夫に泣きついても念願の芥川賞を授けられず,度重なる狂言自殺と麻薬中毒,本妻と複数の愛人との泥仕合,世間的な嘲笑と文壇からの軽蔑など,太宰の生活は乱れに乱れていた.人気作家の地位を得ると,自分に報いてくれない立場や批判する者に次々と噛みついている.個人的には,志賀や三島に相対するほどの文学的才能もないくせに,身の程知らずがと一笑に付したくなる.ここで述べた歴々の文人に比べれば,太宰の文学などはるかに劣った水準しか獲得していない.どれだけ本が売れようとも,芸術の域においては本質的評価には繋がらない.

 太宰は「最悪」の積み重ねが小説になるのだと述べた.39年の生涯で4度の自殺未遂,2人の女の命を道連れに奪い,一度は自分だけ生還したことすらある.それを反省して贖罪するどころか,麻薬に溺れ,開き直りの境地で自殺を完遂した.当世の文学者たちと論争を繰り広げた割には,作品の芸術性は低い.この人の幸運は,文学の一定位置に身を留め,それなりの場所を確立したことにある.だが,太宰の弱さの中にある美学だとか,高尚な精神を求め称揚しようとする評論に時折出会うと,太宰の作品以上に虫唾が走る.この男にそんなものはない.非人間性と文学性の紙一重の位置でよろめきながらかろうじて立ち続けたのが実際のところで,妙な神格化はまやかしに過ぎない.人や自分が見せたがらない内面を誇示して駄目さ加減を徹底して貫き,共感を得ようとする意図を見透かして気張っていても,人の弱さは所詮こんなもの,と居直っているようで苛立つ.そこに自分自身の軟弱さ,負の感情がスポイルされる感覚が呼び覚まされ,その存在証明に耐えがたい屈辱感が歪曲して,作品と作家への嫌悪感が先に立つのだろう.

 長身で甘いマスク,着物姿で女たらし,猫背で近眼,30歳で総入れ歯の太宰は,全集にして全10巻の小説と随筆,書簡,草稿を1巻ずつ残した.

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原題: 人間失格

著者: 太宰治

ISBN: 4101006059

© 2006 新潮社