▼『約束の海』山崎豊子

約束の海

 戦争とは?日本人とは?海上自衛隊の潜水艦と釣り船が衝突!若き士官を待ち受ける苛烈な日々.その父は昭和十六年,真珠湾に出撃し…構想三十年,壮大なスケールで描く最後の長篇小説――.

 療過誤と医学界の権力闘争を主題とする『白い巨塔』以降,山崎豊子の文学的世界では「金融」「商社」「鉄鋼」「日中外交」「航空」「国家機密」等の内実暴露をフィクショナルに再構成する裾野が大幅に拡張されてきた.本書は,海上自衛隊潜水艦「なだしお」と遊漁船が衝突し,遊漁船「第一大和丸」が沈没した海難事故を彷彿とさせる「第1部」のみの完成で絶筆となっている.海上自衛隊の潜水艦「くにしお」に乗務する二等海尉・花巻朔太郎と,朔太郎の父――旧海軍士官で元特殊潜航艇乗組員の酒巻和男がモデル――の過去を交錯させる「第2部 ハワイ編」.2004年に移り,東シナ海を舞台とした日中領域権をめぐる一触即発の事態を描く「第3部 千年の海編」(仮題).三部構成で「戦争をしないための軍隊」を追究する構想だった.

 朔太郎は,海自史上最悪の事故を起こした自衛隊に対する烈しい非難に煩悶する.父はかつて真珠湾攻撃の際に特殊潜航艇の魚雷攻撃で「軍神」となるはずだったが,捕虜第一号として生き残る(モデルの酒巻は戦後,トヨタのブラジル現地法人の社長となった).山崎は車椅子生活で取材ができない体だったため,新潮社内に「山崎プロジェクト編集室」が設置され,防衛機密の厚い壁に守られた潜水艦取材をはじめ,取材記録はDVD200枚を数えた.山崎プロジェクト編集室によると,第2部クライマックスに,父子が愛媛県西宇和郡伊方・三机の海岸で日本の国防について語り合う場面が描かれる予定だったという.

 日米の多くの艦船が沈んでいる鎮魂の海は,父が真珠湾攻撃のために特殊潜航艇での訓練を積み重ねた湾を抱いている.「この日本の海を,二度と戦場にしてはならないのだ.それが俺とお前だけの約束にならぬように,信念を貫き通せ」.不名誉と対峙することを迫られた息子への贐(はなむけ)となる父の言葉は,作者の中でおそらく推敲の余地はなかったはずだ.「戦争三部作」(『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』)以来,山崎が1作を産み出す取材と執筆期間は,10年を超える単位での「難事業」と化して30年は経つだろうか.「前作を超えるようなスケールのテーマでないと魅力を感じない」と公言していた山崎は,『大地の子』完成後,作家を引退しようとした.

 新潮社の斎藤十一に「芸能人には引退があるが,芸術家にはない,書きながら柩に入るのが作家だ」と意見され,生きている限りは筆を折らない,それが作家の使命だと心に決める.新潮社の怪物編集者の忠告通りに,柩に入るまで書き続けた社会派作家の重鎮.常に彼女を鼓舞したという座右の銘ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテJohann Wolfgang von Goethe)の至言も,忘れずにいたい.「金銭を失うこと――それはまた働いて蓄えればよい.名誉を失うこと――名誉を挽回すれば,世の人は見直してくれるであろう.勇気を失うこと――それはこの世に生まれてこなかった方がよかったであろう」.

約束の海

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原題: 約束の海

著者: 山崎豊子

ISBN: 9784103228233

© 2014 新潮社