▼『明香ちゃんの心臓』鈴木敦秋

明香ちゃんの心臓 東京女子医大病院事件 (講談社文庫)

 医師になることを夢見た12歳の少女が,名門病院の心臓手術で命を落とした.手術のデータは改竄され,両親に真実は伝えられなかった.「よい医療」とは何か.患者側と医療側が互いの溝を埋めるべく歩み寄り,病院改革,医療改革の第一歩を踏み出した,試みと知見の記録.講談社ノンフィクション賞受賞作――.

 が国の大学病院は,本院と分院を併せて163施設と全病院数の1%程度に過ぎないが,医療事故の15%が大学病院で起きている.医療過誤訴訟の鑑定を引き受けている「医療事故調査会」(大阪府八尾市医真会八尾総合病院)は,過去9年間で鑑定が終了した医療事故686件のうち,105件が大学病院での発生だったと発表している.そこでは大学病院での事故の約60%が医療過誤と判定され,さらに686件の医療事故を設立主体別にみると,大学病院のほか,国公立病院や医療センターなどを含めた「基幹病院」での鑑定事例が397件(57.9%)に上った.調査会が医療過誤と判定したのは507件(73.9%)と,過去9年間でほとんど変化がなかったという.

 2001年3月2日,東京女子医大病院附属心臓血圧研究所(心研)で心房中隔欠損症の手術を受けた12歳の少女の死は,心研の隠蔽体質を反映した医師の慢心により,証拠隠滅罪と業務上過失致死罪を争う刑事事件に発展した.施術が「治療」を目的とし,医学上認められた「手段および方法」であり,「患者,保護者,代理人などの承諾」を得て行われた診療過程に過失が発見されない限り,患者の死という不幸な結果が起きても医療行為の不当性を問うことはできない.問題は,医療機関に限らず高度専門職能集団は,情報の非対称性を巧妙に利用して組織的防衛を図ることにある.

 医療機関は,国民の生命を深いレベルで扱うために,その問題が組織特有の閉鎖性と相俟って,潜在性を払拭する難しさを保ちながら先鋭化されうる性質をもっている.2001年の東京女子医大事件は,1999年の横浜市大医学部附属病院で起きた事故(心臓手術予定者と肺手術予定者を取り違えて,過誤となる手術を実施した)で強調されたヒューマンエラーの問題をある意味では「通過」し,医療機関の体質をクローズアップする構図を作り出した.決定的であったのは,少女の手術経過を知ると思われる関係者からの「内部告発文書」である.

 医療関係者が内部告発を遺族に実施し,その全文が世に知られる稀有な事例となったが,そうまでしなければ東京女子医大心研の偽証や捏造を生産する“病巣”は明らかにならなかった.本書は,被害者とその家族の生活暦,手術前後の医療事情を綿密に調査した跡がうかがえ,医療側が一般国民の視点からいかに義憤を覚えるものかを考察している.少女の両親は,被害者連絡会の設置,裁判外紛争解決(ADR)の設置に向け働きかける.しかし遺族の希望は,心研の機能停止や手術責任者の医師生命を断つことではない.

 装置自体に瑕疵があることを強く疑わせる人工心肺装置が全国で用いられ,それが結果的に娘の生命を奪うことになり,医療機関からは納得できるような誠意ある対応がない――「同様の事故を繰り返してはならない」と自らを奮い立たせなければならなかった悲痛な想い.2006年11月,厚生労働省は大学病院に対して6ヶ月間の戒告,カルテを改竄した元講師(2002年に証拠隠滅容疑で逮捕)に対して保険医登録取り消しの処分をそれぞれ下した.この元講師の「外科医を……辞めようと思っています」という言葉に対し,少女の父親は即座に「辞めるな,それでは何の意味もない」と答えている.強硬な対立は建設的な展開から遠ざかるリスクを生む.したがって対話を重んじるべきと説くことは,第三者の立場からは容易である.

勇気を持って撤退する判断力や決断力は,修羅場に遭遇し,それを乗り越えなければ身につかない.有能な心研の外科医をここで葬り去ってよいはずはない

 悲惨な医療過誤の当事者となった時,どのような意思をもって行いを為すか.「開かれた医療」の喧伝とは逆行する実態の解明,組織の隠蔽体質の是正に寄与する「一歩」――「単行本あとがき」で述べられたように――全国七地域で始まった医療関連死の死因究明モデル事業,日本医療機能評価機構における事故報告制度に,「ささやか」ながら認めることができるはずだ.現時点での影響力は微々たるものであるとしても,患者側からすれば未だ濃霧のたちこめる医療界に,不誠実な弥縫策を許さぬ機運を社会へ要請し,社会から医療界への照射を期待するエポック・メイキングとして,本事件は永久に記憶に留められるべきなのだ.

平柳さん,僕はね,東京女子医大病院には,患者さんたちが寄せた期待に応えられなかった責任――社会的責任があると思うんですよ(東間紘:元東京女子医科大学病院院長)

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原題: 明香ちゃんの心臓―東京女子医大病院事件

著者: 鈴木敦秋

ISBN: 9784062767583

© 2010 講談社