▼『春にして君を離れ』アガサ・クリスティー

春にして君を離れ (クリスティー文庫)

 優しい夫,よき子供に恵まれ,女は理想の家庭を築き上げたことに満ち足りていた.が,娘の病気見舞いを終えてバグダッドからイギリスへ帰る途中で出会った友人との会話から,それまでの親子関係,夫婦の愛情に疑問を抱きはじめる…女の愛の迷いを冷たく見据え,繊細かつ流麗に描いたロマンチック・サスペンス――.

 作で知られるアガサ・クリスティAgatha Mary Clarissa Christie)は,離婚後のオリエント急行でのイスタンブールバグダードへの一人旅で作品の着想をさまざまに得たという.数々の探偵小説のほか,別名義"メアリー・ウェストマコット"で6つの小説を発表している.本書は,「私的で貴重な想像の庭」の探索という意味合いをもつウェストマコット名義として,2番目に発表された小説で,わずか3日間で書き上げられた.クリスティは自伝で「この作品は誠実に,真摯に,私が書こうと思った通りに書かれた.それは作家が持つことのできる最も誇らしい喜びである」と書いている.

 中年女性ジョーンには恋愛結婚した夫(地方弁護士)がおり,夫婦はクレイミンスターの立派な家に住み,3人の子はすでに独立してそれぞれ家庭を築いている.おおむね順調な人生を歩いてきたと自負する彼女は,初めての一人旅で悪天候に遭い,帰郷のため砂漠の孤立したレストハウスで列車を何日も待ち続ける.過去から現在まで,自分は良き妻・良き母であったことは露ほども疑えない.しかし,暇をもて余し過去の回想にひたる彼女の内心に,いくつかの疑心が忍び寄ってくる.かつて,若い時分の夫は弁護士を辞めて酪農家になりたいと言った.ホワイトカラーよりも畑を耕して豚を飼う生活がしたい?馬鹿なことを,とジョーンは妻としてそれを思いとどまらせた.

 幼かった子どもの友達は「(自分の子に)ふさわしいかどうか」を厳しく選別し,その基準は常に母であるジョーンが握っていた.当然,子どもの前途に影がささないために必要な指導だった――すべて正しいことだったはずだ.しかし,息子が述べた言葉も確かに事実だった.「ときどきお母さんって,誰についても何も知らないんじゃないかって思う事があるんだ」.ロンドン近郊の田園都市サニングデールに住んでいたクリスティは,1926年12月3日から11日間行方をくらます失踪事件を起こした.本書でジェーンは「蜃気楼,蜃気楼,大切な手がかりのような気がする,この言葉」と呟く.彼女が目を背けるべきでなかったのは自身の内面ではなく,不問に付されてきた家族の心境であった.人生の選択を「最善」と疑おうともしなかった安心感が,音もなく亀裂を走らせる.

 危機をそっと胸に秘め,中年女は何事もなく家庭に戻り生活を再開する.しかし,聞き分けのよい愚鈍な夫こそ,妻を冷酷に観察していた.その事実を読者が知ったとき,なんとも形容できない寂寥感を得るだろう."ウェストマコット"作品では,クリスティ名義の探偵小説で扱われる「人の肉体死」はない.しかし,ゆっくり時間をかけて浸食される「人の心」は確実に描かれている.それは,蜃気楼と呼ぶほど不確かな実態のものではない.失踪事件を起こしたクリスティは,北イングランドの町ハロゲートにある「スワン・ハイドロ・ホテル」に夫の愛人の姓を名乗り滞在していることが発覚し,無事保護された.だが,迎えにきた夫を見ても誰か解らない素振りを見せ,記憶喪失のような態度が認められたという.それが演技によるものだったのか,一過性のものであったかは不明のままである.

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Title: ABSENT IN THE SPRING

Author: Agatha Christie

ISBN: 4151300813

© 2004 早川書房