「あんたが神を信じたくなるような話を知っているよ」.1996年春,作家として行き詰まりを感じていた著者は,新作小説の執筆のため南インドを訪れ,ひとりの老人と出会う.老人の名はフランシス・アディルバサミ.彼が話してくれたのは,ここポンディシェリに始まり,たった今逃げ出してきた自分の国,カナダで終わるという不思議な話…パイ・パテル氏の物語だった.帰国した著者は,パイ本人から彼の辿った数奇な運命の全貌を聞く.十数年前,16歳の少年パイが一艘の救命ボートに動物たちと共に残され,太平洋上を227日間さまよった驚くべき漂流譚――. |
アン・リー(李安)による映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」(2012)は傑作.本書はその原作である.ヤン・マーテル(Yann Martel)は1963年スペイン生まれ,外交官の父の赴任によりコスタリカ,フランス,アラスカ,カナダで成長した.映画は原作におおむね忠実だが,パイ・パテルの来歴に宗教と信仰の多元性が大きな意味をもつ背景が,より丹念に布置されている.パイはヒンドゥー教,イスラム教,キリスト教の開祖や神を仰ぎ,苛酷な運命を耐えようとする.
彼に贖罪の意識が生まれ,自我を保つ必要に迫られたとしたら,忌むべき背徳に対し下される神罰への畏れがあるからだ.パイは信仰によって生かされず,編み出した荒唐無稽な「物語」によってその精神を自己救済した.宗教の権威を保つために語り継がれる神話と,パーソナルな自己暗示としての物語が融和せず,拮抗関係にあることが本書では明示されている.獰猛な虎“リチャード・パーカー”との生存を懸けた緊張関係は,人の心と獣の心の鬩ぎ合いの幻影.「生きるためには食べなければならない,たとえそれが人肉であっても」.貨物船の難破と唯一の生存者という事実関係だけをみれば,パイがどのような「他者」と漂流していたにせよ,結果は変わらない.
目撃者や証言者の不在により,事態の説明はパイ本人がどのように事実を解釈し,あるいは逃避することによって命脈を保ったかという帰趨をみる.猛獣との共存を図ろうとした魅力的な物語と,現実的な凄惨な物語は,パイが受難と決するためにジオラマ形成を必須としたゆえに表裏的関係にある.文字文化をもたない民族はあっても,伝承や神話といった物語をもたない民族はないという.仮構を作り出さなければ窒息してしまったであろうパイは,それ自体,等身大の偽りなき人間性の表象となっている.
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Title: LIFE OF PI
Author: Yann Martel
ISBN: 9784812492086, 9784812492093
© 2012 竹書房