沖縄返還にまつわる政府の機密文書を入手した新聞記者と,ニュースソースの女性秘書が逮捕された「外務省機密漏洩事件」に材をとり,ひとりの男の挫折と再生のドラマとして再構築.国家権力に完膚なきまでに叩きのめされ,職も,家族も,誇りも失った男が辿り着いたところは――. |
事実の集約を,推測や主観を交えた「虚構」に融合させ文学に昇華する.その手法の危険性と詮議立ては避けられないとしても,山崎豊子が国民的作家であったことに疑いの余地はない.1963年より連載を始めた『白い巨塔』を嚆矢として,社会の腐敗や欺瞞を鋭く,社会に向けて告発し続けた.戦争三部作――『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』――は,その一大成果だった.戦時中,毎日新聞大阪本社に入社し,十年ほど学芸部の記者を務めた著者が,なぜジャーナリストではなく作家の道を選ぶことになったのか,それは,事実の整然たる積重ねで批評活動を行うだけではなしえない部分を,小説形態を取る「物語」の構築で表現しようと努めたからである.社会悪の告発には,人間のドラマがいかなる形であれ,関与せざるを得ない表現としての文学である.
毎朝新聞政治部キャップ弓成亮太は,政治家および官僚に食い込む類稀なる力量をもつ敏腕記者.昭和46年春,大きな注目を集める沖縄返還交渉の取材中,弓成は,外務審議官付事務官三木昭子を通じてアメリカ政府と日本外務省がある「密約」を共謀していることを知る.衆院審議が終わってからでは,事実の公表の機会を失すると危惧した弓成は,入手した機密文書コピーを,弁護士でもある社進党議員横溝隆之に渡した.予算委員会の場で,横溝はこの文書を掲げて政府を詰問したため,外務省機密漏洩の国策捜査が開始される.国家公務員法違反容疑で逮捕された弓成と三木は,新聞記者と情報源という関係にありながら,肉体関係を通じて機密文書をやり取りしたということが明らかになり,事件はマスコミの格好の標的となった.三木は外務省を退職,弓成も新聞記者生命を断たれ,すべてを失った弓成は彷徨の年月を過ごす.各地を放浪した末,弓成の足は沖縄に向かった.
前作『沈まぬ太陽』の取材時,著者が鹿児島に赴いた際,気まぐれから沖縄に足を向けた体験から形をなしていった作品である.国家権力の圧力により,筆を折らざるを得なかった新聞記者の半生は,元毎日新聞記者の関与した事件――いわゆる「西山事件」――をモデルとしている.「米側が支払うべき軍用地復元保障費400万ドルを,日本側が密かに肩代わりする」というスクープをものにした西山太吉は,外務省女性事務官蓮見喜久子と関係をもって,取材上知り得た機密情報を社会党議員(当時)横路孝弘に漏洩した.当時の佐藤政権と,米国ニクソン政権は,1971年署名の沖縄返還協定に関して,本来米国が支払うべき土地の復元費用を,日本が肩代わりして負担する密約を結んでいた.国際法上,領土返還に発生する費用(軍用などに接収していた土地を復元する費用など)は,この場合には米国が支払うことが定められている.ところが沖縄返還については,それとは逆に日本が負担したのである.元外務省アメリカ局長吉野文六は,国に本件の文書開示を求めた訴訟の証人尋問で以上の事実を認め,「(秘密文書に)イニシャルでサインした」と晩年に証言している.
事件当時,米国はドル危機にあり,国内の議会では沖縄返還に費用を供出する合意を取りつけていなかった.一方,日本は高度成長によって経済力を強めていた.さらにノーベル平和賞受賞の機運が高まっていた佐藤栄作の晩節を汚すことのないよう,政治的「配慮」が働いた.交渉の難航を避けるため,佐藤総理の決断で,返還と400万ドルの肩代わりがセットで水面下のうちに決定したとされる.しかし,この金額だけで済んだわけではない.琉球大学の我部政明教授(当時)らが調査した米国側の文書によると,連邦準備銀行に25年間無利子で預け,利息を含め計算上約1億1200万ドルの便宜を与えたこと,基地施設改善移転費6,500万ドル,労務管理費1,000万ドルが日本の「財政負担」となっていた.国務大臣歴任者とも親交があり,飛ぶ鳥を落とす勢いだった政治部記者弓成は,ひとたび国家権力を敵に回した途端,いとも簡単に記者生命を剥奪されていく.弓成と三木の起訴状には,「密かに情を通じ」という言葉が織り込まれ,国民を欺く「沖縄返還密約」問題が,記者と外務省女性事務官の男女関係にもとづく「機密漏洩事件」の醜聞的性格に,巧妙に変質させられたのである.
著者は,記者を襲った悲劇は,国家権力による欺瞞と暴力によることを物語に託して著した.初めて訪れた沖縄で,著者が眼にしたのは,穏やかで人の過去を詮索しない素朴な現地の人々であった.同時に,在日米軍基地の75%がこの地にあり,軍兵による犯罪や住民との終りの見えない確執という事実だった.戦時中,大学生だった著者は,軍需工場に動員され,砲弾を研磨する仕事を与えられていた.教員になる夢をあきらめなければならなかった挫折,戦争に従事することを強いられる苦痛や悲しみは,後に作家を志す動機を形成したという.沖縄が本土に返還後,実質的に終戦を迎えたと感じられたこの国では,まだやり残したことがあるのではないか.戦後の日米関係の歪みは,沖縄の地に刻印されてきたのではないのか――問題意識が,本書執筆の意欲に結び付いていく.当事者である元記者西山太吉に取材を敢行し,西山が保管していた裁判資料数千ページを読破.記者の職権と個人の人権を踏みにじる不当な裁判であったことの理解を深めていった.
本書の第4巻は,仕事も家族との絆も失った弓成が,沖縄で孤独な生活を続けるところから始まる.しかし西山が沖縄で生活を送ったという事実はない.3巻までの事件に関する豊富な取材力を窺わせる記述は,ここでがらりと印象を変えている.新聞社の内幕や法廷闘争の描写ではなく,文学の格調はより高く,弓成の失意とともに,その生活は情感に満ちている.その中でも,沖縄県民に脅威を与える軍事や米国の治外法権が描かれ,かつて自分が闘った密約問題の舞台となった地の「現実」を目の当たりにする.弓成はノートに取材覚書を記し続け,自己に眠るジャーナリストの矜持を完全に失わないよう,抵抗を続けた.それは,彼にとっての「本能」であった.年月は過ぎ,老いた弓成だが,琉球大学の我楽政規助教授が米国で沖縄返還に関する日米の極秘資料を発見.その朗報を耳にした弓成が「全身に昂揚感を漲らせ」る場面で終幕となる.山崎豊子は,晩年には原因不明の病に襲われ,全身に激痛が走る日々を送ったという.本書の連載時,長期の休載も経験した.84歳を越え,最後の著作となるつもりで取り組んだという本書だが,筆をもつ手が動く限り,断筆はないと宣言,膨大な文献の渉猟と取材のうえになしえる著作として,次なる巨編「約束の海」連載中の2013年9月に世を去った.弓成の書き手としての魂と,本書の作家としての決意は見事に重なり,その意志は病や老齢をもってしても,揺るぎのないことが伝わってくる.
† 追 記 †
横路孝弘は2023年2月2日,西山太吉は2023年2月24日に死去
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原題: 運命の人
著者: 山崎豊子
ISBN: 416328110X, 4163281207, 4163281304, 4163281401
© 2009 文藝春秋