▼『彼の生きかた』遠藤周作

彼の生きかた (新潮文庫)

 〈俺は人間の世界が嫌や.言葉も不自由やし……俺もお前たちの中に入りたいわ〉ドモリで気が弱いために人とうまく接することができず,人間よりも動物を愛した福本一平は,野生の日本猿の調査に一身を捧げる決意をする.しかし,猿の餌づけに精魂をかたむける彼の前には,大資本が,無理解な人間たちが立ちふさがる.一人の弱い人間の純朴でひたむきな生きかたを描く感動の長編――.

 本の霊長類学研究は,1947年に今西錦司が行った都井岬の半野生馬とニホンザルの生態調査から開始されている.今西は1950年には霊長類の研究グループを発足させ,幸島ニホンザルの餌付けによって研究が進められた.戦後,世界に先駆けて日本で始まった霊長類学は,餌やり場に集ったサルを個体として識別し,個体同士の力関係や群れの文化などのデータを収集できる有効なアプローチ――「人獣一如」「人猿一体」と呼ばれる手法――を確立した.しかし,ヨーロッパの霊長類研究者は,一部の例外を除いて餌付けなどのコンタクトを通じた手法には批判的であった.

 本書の主人公のモデルとなった間直之助は,今西らが結成した京都大学霊長類研究グループに加わり,動物に親しむことを基礎として専門性を築いていった.子ども時代から吃音に悩み,人間のコミュニティから距離をとることを好んだ間は,霊長類研究グループで京都嵐山の野生サル調査の餌付けを開始している.1973年,山にニホンザルを返す運動「比叡山ニホンザルを守る会」の指導者となり,本書(文庫版)に解説を寄せている.遠藤周作は,フランス留学時代に,リヨン郊外の公園で1匹の猿とのふれあいで孤独を癒した体験があった.

 満洲の少年時代には,両親の不和で家庭に居場所のなかった彼は,犬と戯れることで慰めを得た時期もあり,「外国生活」における「動物との交流」は,特別な意味をもっていたように思われる.「神」「人間」「動物」のヒエラルキーを基本的な視点とするカトリック的世界観と,12歳のときカトリック教会で受洗した著者の世界観は,同じコンテクストでカトリシズムを共有していないことが興味深い.現実世界で傷つき疎外されている者が,動物との信頼関係を通じて安息を得る.しかし,本書では強大な資本や研究上の不正・無理解といった暴力が純朴な青年を窮地に追込む.

 旧約聖書では,水の中に群がるもの,空の鳥,家畜,地を這うもの,地の獣,そして人間などを「生ける魂〈ネフェシュ〉をもつもの」と規定している.主人公は,「人獣一如」「人猿一体」を超越し生命の普遍原理ネフェシュの実存として,ヒトやニホンザルといった霊長類を認識しているが,それは一般の傲慢な人間には理解されない観念なのである.サルの愛護者となった吃音の青年は,ヘブライの民を率いた預言者モーセ(Moyses)のように,サルの群れを連れ山の奥ふかくに身を隠して人間世界との隔絶をはかる.宗教的な描写を一切排し,著者の年譜からも省かれることの多い小作品だが,愛情と自己犠牲は明確に位置づけられている.

さ,猿はものが言えん.人間のようにものが言えん.し,しかし,ものが言えんでも,猿かて…か,悲しみはあるんや.さ,猿かて・・・悲しみはあるんや.ぼ,ぼくが,つ,つれていってやるさかい.ボスのかわりに,ぼ,ぼくが,つれていってやるさかい,も,もう人間の手の,と,とどかん場所に行こ.人間の汚れが,ち,近づかぬ場所に行こ

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原題: 彼の生きかた

著者: 遠藤周作

ISBN: 4101123101

© 1977 新潮社