『告白』につづいて書かれた本書は,その自己探求の道をさらに進めたものである.晩年全くの孤独に閉されたルソーは,日々の散歩の途上に浮び上る想念を,つれづれの印象を,事件を,あるいは生涯のさまざまの思い出を記し,人間と自己を見つめ続けた.偉大な思索家ルソーの諸著の中でも,特に深い感銘を与えるものであろう――. |
この書をしたためた老人は,固陋で,凍てついた強迫観念から逃れることなく,不遇の晩年を送った.本書は偉大な思索者の最後の追憶として,傑作『告白』と対をなす随筆であるようにも思える.
フランス散文のなかでも,最も美しい一篇ともいわれる本書の評価が過大であるかどうか,その議論にはあまり意味がない.ジャン・ジャック=ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の死後に刊行されたこの作品は,出版直後にヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)がこれを読み,フランスとイギリスのロマン派にもそれぞれ深い影響を与えた.
――たとえば,ドイツではヘルダーリン,クライスト,リヒターに本書の影響が認められる.フランスではセナンクール,シャトーブリアン,ネルヴァルなどが感銘を受け,イギリスではシェリー,ハズリットらがいる.これらの作家の作品にあらわれる大自然の描写は,まぎれもなくルソーの遺作に範をとっている.
ルソーが思想家としての名声を獲得したのは,1755年『人間不平等起源論』である.この書で彼は,王侯,貴族といった「古くからの特権階級」だけでなく,富力をかざす「新しい特権階級」,学者,芸術家と称する「精神的な特権階級」,いずれにも徹底的な攻撃を加えた.しかしその根本思想は,人間は自由なものとして生まれたのであって,それを歪める社会的不平等が諸悪の根源であるとしていた.1762年までルソーの躍進は続く.1758年『ダランベールへの手紙』,1761年『新エロイーズ』,1762年『社会契約論』『エミール』・・・
だが,金持ちの放蕩を厳しく非難し,質素な生活を賛美した『ダランベールへの手紙』をきっかけに,親友ドゥニ・ディドロ(Denis Diderot)とは袂を分かつことになった.社交界のサロンに溶け込もうと努力したルソーだったが,最後まで空気になじめなかったというから,ブルジョワの生活は,さぞかし虚飾に満ちたものに思えたのだろう.小市民ルソーとは世界を共有できるはずもなかったのである.
『エミール』はパリ高等法院から禁書として認定された.これがルソーの運命を決定づけたといってもよい.ルソー自身,『エミール』を最も重要な本と位置づけていた.人間には生まれつき善を好み,悪を憎む性質がある.健康,衣食住,人間関係が満たされていれば,人間は十分に幸福なはずである.それが他者との相対的な比較で自分の幸福度を測るから,人間は不幸にもなるし,悪の道にも走ることになるのだ.だから社会的な差別,不公正をなくさなければならないとルソーは考え,もっとも重要な問題意識としていた.
なぜ,『エミール』は禁書処分を受けたのか.主な理由は2つと考えられている.第1に,国王や大臣などは実にくだらない連中だ,という記述を『エミール』であちこちに散りばめていた.第2に,宗教や信仰のありかたなどはどうでもよいし,司祭や教会などは無用であると書いた.しかし,このような主張は,ルソーがタブーを破って初めて出版したわけではない.その類の本はそれ以前にもあった.ただし,出版は匿名で出すのが常識だった.でなければ,弾圧の格好の対象になったからである.それをルソーは,実名で出版した.しかもご丁寧に,「ジュネーブの市民,ジャン=ジャック・ルソー」と堂々と署名しておいたのである.
ルソーはフランスを離れ,スイスに逃れる.かつての仲間ヴォルテール(François Marie Arouet, genannt Voltaire)やディドロの迫撃を避けるためである.政府に「土地を退去せよ」と命ぜられたルソーは,モチエへ移る.しかし,民衆の敵意は次第に高まり,散歩中には口汚く罵られ,家には石が投げつけられる.またもや立ち退きを余儀なくされ,サン・ピエール島,イギリスを転々としてやっとパリに戻ることを許されたのは1770年,58歳のときだった.
この隠遁と逃亡生活は,パリ政府の執拗な攻撃,かつての友人の変節と非難,公衆の憎悪にさらされた経験から,ルソーの神経を異常に昂ぶらせ,猜疑心も強めたようである.1776年,ルソーは書き上げた『ルソー,ジャン=ジャックを裁く』をノートルダム寺院の祭壇に捧げようとしたが,寺院の内陣が閉まっていたため果たせなかった.翌日,「後世のためのいろんなばかげた試み」(第一の散歩)と振り返るような,「いまだ正義と真実を愛する全フランス人へ」と書いたビラを通行人に渡そうとするなど,理解しがたい行動が目立っていった.
以前ほど旺盛でなくなったわたしの想像力は,想像を呼びさます事物を静観しても,昔のように燃えあがることはないし,わたしはかつてのように夢想に酔いしれることもない.今では夢想から生まれるのは多くの場合,創造ではなくて追憶なのである.目に見えない衰弱がいっさいの機能を麻痺させていく
パリのプラトリエール街のささやかなアパルトマンに居を構えたルソーは,楽譜を写す仕事で細々と生計を立てていた.趣味の植物採集で人間関係に疲れた神経を休め,散歩の折々に思いついたことをカルタ(トランプ)の裏面にメモしていき,『孤独な散歩者の夢想』執筆の素材としていたようだ.このカルタは,スイスのヌーシャテル市図書館に27枚保管されている.
興味深いのは,ルソーは人嫌いに陥ったことを本書で明言して憚らないのだが,実生活では四面楚歌の状態にはなかったことである.楽譜を写す仕事は当時1ページ10スーで請け負っていたので,年間900フランほどの低収入ということになる.生活費は著書の印税,支援者からの年金でまかなわれていた.訪問者は引きもきらず,なかにはルソーに面会するために,口実として楽譜の仕事を依頼する人もあったほどである.
そんな生活にも,ルソーは疲れ果ててしまったようだ.1777年には,この楽譜関係の仕事を打ち切っている.1776年『ルソー,ジャン=ジャックを裁く』で精も根も尽き果てたであろうことを考慮すると,人間社会全般への不信感からくる厭世観が,仕事から身を引かせたことは偶然ではないのである.すでに思考することには疲れ,散歩を好み,夢想と瞑想のままに放逸したい老境の人の域に入っていた.
落ち着きを取り戻したかに見えた生活だったが,迫害を恐れる恐怖心は常についてまわった.あるとき,いつものように散歩をしていると,幼い男の子に出会った.菓子パンを買い与え,「お父さんは」と聞くと,子供は樽を直している男を指差した.父親とおぼしき男に近づいていったとき,1人の人相の悪い男がルソーを追い越していった.それが,ルソーを常に監視しているスパイではないかという気がした.樽屋の目も好意的なものではなく,不快な興奮を感じたルソーは,足早にその場を立ち去ってしまった.警察のスパイにつきまとわれたことは事実としてあったようだが,ルソーが迫害者の陰謀と悪意が自分を包囲していることに恐怖していたことを物語るエピソードである.
本書は,「第一の散歩」から「第十の散歩」までの全10章構成になっているが,10章にあたる「第十の散歩」は未完.社会でもてはやされた経験をもちながら,内面的な生活の穏やかさを望み,人との距離を置きながら,植物学の研鑽に安らぎを見出さざるをえなかった老人の哀愁が全篇には漂う.彼のことを敬慕した人物もいないではなかったが,世論を誘導できる哲学者,科学者からの評価は無慈悲なものだった.ルソーの死を知ったヴォルテールは,書簡で次のように書いている.
ジャン・ジャックは死んだが,けっこうなことです.犬のために殺されたというのはほんとうではないとのことで,同輩の犬にやられた傷はなおったのだが…中略…犬のように死んだということです
――1776年12月24日,ルソーは,突進してきたデンマーク犬に打ち倒され,昏倒して大怪我を負った.「犬にやられた傷」というのは,このときのことを指している.
まことに,容赦のかけらもないというほかはない.ヴォルテールをはじめ,科学者たちは異端者ルソーを社会的に抹殺しようと息巻いていたから,ルソーがそこから避難せざるを得なかったのは当然だった.翻って,フランス散文でも比類なき格調と美しさをもつと知られる「第五の散歩」の,聳え立つ山々と豊沃な平野に挟まれた湖水の眺望,寄せては返す水面の波が心の動揺を追い払い,時間の経つのも忘れて夢想にふける場面は,生き生きとした感動的な調和をみせている.
とりとめもなく,やすらかな散歩に安息を求めてはいたが,果たしてそれが充足したものであったのだろうか.支援者ルネ・ド・ジラルダン侯爵(René de Girardin)が,ルソーにエルムノンブルにある渓谷のほとりの庭園を提供したのが1778年の5月,そしてルソーが没したのはわずか2か月後のことだった.
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Title: LES RÊVERIES DU PROMENEUR SOLITAIRE
Author: Jean-Jacques Rousseau
ISBN: 4003362314
© 1960 岩波書店