▼『国家と教養』藤原正彦

国家と教養 (新潮新書)

 「教養」とは,世の中に溢れるいくつもの正しい「論理」の中から最適なものを選び出す「直感力」,そして「大局観」を与えてくれる力だ.では教養を身につけるためにはどうしたら良いのか.教養の歴史を概観し,その効用と限界を明らかにしつつ,数学者らしい独創的な視点で「現代に相応しい教養」のあり方を提言する.大ベストセラー『国家の品格』の著者が放つ画期的教養論――.

 ォルフ学派アレクサンダー・G・バウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten)による「美および芸術の原理学」としての美学は,英知的な芸術は〈美しい技術〉(ファイン・アーツ)として存在し,認識論として人間のあらゆる活動に応用可能とするものだった.人文科学・自然科学・社会科学の3領域すべてを包摂する技芸の原則を厳密に順守せずとも,「人生を豊潤にする」「強靭な思考力と実践知を養う」の二面が同心円的に結ばれ,中心は必ずリベラルアーツとなるだろう.

 認識の帰結が直観的な「正しさ」「美しさ」と合致するとは限らず,また問われるものでもない.しかし,直観的に「反倫理」「不道徳」「醜さ」を退け,審美を好む〈感度〉が鈍ければ,深い認識は到底生まれない.著者は,知識は普段は脳内に眠っているものだが,実体験や大衆文化により養われた情緒や形があって初めて知識に生が吹きこまれ,真の教養となるという.美意識のないコモデティ化した領域に,低俗なモラルハザードが澎湃として立ち上がってくる.

教養という座標軸のない論理は自己正当化に過ぎず,座標軸のない判断は根無し草のように頼りないものです.ありとあらゆる論理には出発点が必要で,この出発点の選択が決定的に重要です.これが間違っていれば,後の論理が正しければ正しいほど結論はとんでもないものとなるからです.教養すなわち知情形に欠けた人は,この出発点を正しく選べないのです

 ハザードに蝕まれた思考では,倫理的な直観を働かせることができないために失策を招く.知性(認識力)・意志(実践力)・感性(審美力)の統合――真善美――を軽視してきた結果,古今東西の無教養なテクノクラートがその没教養主義ゆえにいかに失態を重ね続けたかが問われる必要がある.科学技術や生産手段の進歩を人間性の進歩と勘違いしたまま,貪婪で傲慢,反動的で不道徳に対する鈍感に浸り続ける「鉄の檻」に生きる無価値な人間には,生涯にわたる"自己陶冶"など発想すら不可能ではないだろうか.

 ドイツの教養市民層がフェルキッシュ運動(民族主義運動)からワイマール共和国時代のファシズムを開いた反省は忘却されてはならないことは理解できる.一方で,グスタフ・シュモラー(Gustav von Schmoller),およびマックス・ヴェーバーMax Weber)が述べた「精神なき専門人,心情なき享楽人」とは,反知性主義に対するニヒリスティックな人間理解というほかはない.教養に価値を見出す人間と没教養主義的な人間の軋轢は,如何ともしがたいように思える.

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原題: 国家と教養

著者: 藤原正彦

ISBN: 978-4-10-610793-1

© 2018 新潮社