影はすべての人間にあり,ときに大きく,ときに小さく濃淡の度合を変化させながら付き従ってくる.それは,「もう1人の私」ともいうべき意識下の自分と見ることができる.影である無意識は,しばしば意識を裏切る.自我の意図する方向とは逆に作用し,自我との厳しい対決をせまる.心の影の自覚は,自分自身にとってのみならず,人間関係の上でもきわめて重要であり,国際交流の激しくなってきた今日においてはますます必要である――. |
元型(アーキタイプ)や,集合的無意識を嗅ぎつけたユング派精神分析家「神経症診断」の方法論は興味深い.誰もが心中に隠し持つ影なるもの,それは自己の気付かぬ半身であり,未踏の領域,内界,無意識世界の鬼子となって人を苦しめる.
影と単純に握手するのはあまりにも恐ろしいことであるが,さりとて影の存在を否定することもできず,つき合わずにいるのはあまりにも損失であり,気がかりでもある
「影をなくした男」の作品名で知られるアーデルベルト・フォン・シャミッソー(Adelbert von Chamisso)『ペーター・シュレミールの不思議な物語』は,影を手放した男が「実体」のない人生を送ることを強いられ,全力でそれに抗う物語.光を照射されて存在を許される森羅万象に,生じる影を「追放」する行為は,不可逆の悲劇を招いてしまう.
創造過程に不可欠な影とはいったい何であろうか.影とはそもそも自我によって受け入れられなかったものである.それは悪と同義語ではない.特に個人的な影を問題にすると,それはその本人にとっては受け容れるのが辛いので,ほとんど開くと同等なほどに感じられているが,他人の目から見るとむしろ望ましいと感じられるものさえある.しかし,創造性の次元が深くなるにつれて,それに相応して影も深くなり,それは普遍的な影に近接し,悪の様相をおびてくる
フォン・シャミッソーの教訓は,むしろ人間の意識に向けられる.豊富に引かれる古今の文学と心理臨床の症例――夢,自我,無意識の断片――から,元型論を介して症状を読み解こうとする思弁が本書ではなされる.影との対峙の有用性と危険にも言及しているが,虚構の二次解釈から現象を論じることの意義は文芸批評的なもの.現実のセラピー云々のくだりは,有相無相の解釈が困難.
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原題: 影の現象学
著者: 河合隼雄
ISBN: 4061588117
© 1987 講談社