▼『KINUEは走る』小原敏彦

KINUEは走る―忘れられた孤独のメダリスト

 有森裕子高橋尚子池田久美子…そのもっと以前にたったひとりで世界に挑み,日本女子陸上の歴史を築いた女性がいた.日本女子初のオリンピックメダリスト人見絹枝の苦難の物語――.

 山県に生まれ,二階堂体操塾(日本女子体育大学の前身)を卒業後,スウェーデンの第2回国際女子陸上競技大会にただ1人参加を許された人見絹枝走り幅跳び5m50(世界記録)で優勝.立ち幅跳び2m47で優勝.円盤投げ32m62で2位.個人総合優勝を果たした彼女には,日本女子スポーツの先駆者として輝かしい未来が期待された.競技者の並みはずれた資質,女子運動選手というだけで投げかけられた中傷にも耐えた闘争心は,わずか24年8か月で燃え尽てしまった.

あれほど苦労して期待した100メートルに敗れました.残るのは明日の800メートル決勝だけです.私にどうか運を与えてください.たった1回だけで結構です.800メートルに私の持てる力全部を賭けて走らせてください.後はどうなってもかまいません

 1928年の第9回オリンピック・アムステルダム大会では,100m12秒2という世界記録を叩き出した人見に当然に注目が集まる.しかし予想外の4位という結果だった.「このままでは日本に帰れない」.人見の決意は常軌を逸している.未経験の800m走の出場権を得るとドイツのリナ・ラトケ(Karoline "Lina" Radke-Batschauer)と死闘を演じ,2分16秒8のラトケに僅差の2分17秒6をマーク.銀メダルでありながら,当時の世界記録を大きく更新したのである.技術論を精神力と体力で凌駕した結果というほかはない.しかし800m走競技は参加選手全員がレース後に昏倒,1960年のローマ大会で復活するまで,30年にわたって女子長距離種目は「凍結」される.

 翌1929年は,彼女の競技人生で最高潮を迎えた年である.60m走,100m走,200m走,走り幅跳び,三種競技と5つの世界記録を樹立.この年までに更新した世界記録は,7種目10回に及んだ.大阪毎日新聞社での記者として記事を書き,全国各地の講演で疲弊した人見は,突然の病(肋膜炎)で喀血,乾酪性肺炎により逝去した.アムステルダムオリンピック800m決勝の日から,ちょうど3年後にあたる同日8月2日であった.

 世界に「ワンダフル・ヒトミ」で知られた人見は,不世出のアスリートであったが,才能の保護とケアというスポーツ・メソッドの未確立の前に沈んだ.全国高校野球大会でプラカードを掲げての入場行進,勝利した際の校歌斉唱,練習に専属コーチをつける重要性などは,彼女の発案で慣習化され現在に至るとされている.律儀に精励し,日の丸を背負って世界に挑んだ人見の健気さは,近代化する国家の命を帯びて殉死した兵士となんら変わるところはなかった.

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原題: KINUEは走る―忘れられた孤独のメダリスト

著者: 小原敏彦

ISBN: 9784907838386

© 2007 健康ジャーナル社