▼『白の闇』ジョゼ・サラマーゴ

白の闇 新装版

 ある男が,突然失明した.それは原因不明のまま次々と周囲に伝染していった.事態を重く見た政府は,感染患者を隔離しはじめる.介助者のいない収容所のなかで人々は秩序を失い,やがて汚辱の世界にまみれていく.しかし,そこにはたったひとりだけ目が見える女性が紛れ込んでいた.極限に追い詰められた人間の弱さと魂の力を圧倒的な筆力で描いた現代寓話――.

 が眼を閉じたときに感じる暗闇ではなく,あたかも,白色の海に沈んだような真っ白な闇.「見えないことについての考察」を原題とする本書は,世界全体を突如として襲う盲目の病,しかもそれがなぜ,どんな経緯で生まれた病なのか,最後まで明らかにされない.ただし,それを問うても意味がない.本書の文学的寓意は,この病が伝染性のものであること,感染が全世界を覆い尽くした時,「可視」の世界が想定してきた人間の理性や文明は,蹂躙され荒廃したオルタナティブな世界が誕生するということである.

 何の前触れもなく,一人の男が失明した.目の前に真っ白な霧が立ちこめたように,何も視認できなくなったのである.人の助けを借り,ようやく自宅に到着する男は,突然の災難に驚いた妻に伴われ,眼科医院を受診する.医院の待合室には,黒い眼帯をした老人,サングラスをかけた娘,斜視の少年がいた.男の眼球の機能はすべて異状なく,失明の原因は分からない.しかし,翌日には,男を診察した眼科医の男性が,失明した彼とまったく同じ症状で視力を失った.この病は接触性のものだと勘付いた眼科医は,厚生省に情報を伝える.事態の深刻さを受け,政府は,感染者を隔離施設に収容することを直ちに決定,患者の移送が開始される.そこには,はじめに失明した男のほか,眼科医が診察した眼帯の老人,サングラスをかけた娘,斜視の少年らも含まれていた.眼科医の妻は,発症者となった夫と密に接していたにもかかわらず,なぜか失明を免れていた.しかし,夫と離れ離れになることを懸念した妻は,「自分も失明した」と嘘をつき,夫とともに隔離施設で生活することを選択する.

 ジョゼ・サラマーゴ(José Saramago)は,1998年にポルトガル作家として初めて,ノーベル文学賞を受賞.当時のスウェーデン王立アカデミーは,授賞の根拠を「(サラマーゴの文学は)想像力,憐れみ,アイロニーに支えられた寓話によって我々が捉えにくい現実を描いた」と述べている.現実とは,常に視認できるものであるとは限らない.奇抜な本書の構想の始まりは,サラマーゴがレストランで食事をしている時にもたらされた.「もし,われわれが全員失明したとしたら,どうなるだろうか」という問いが,「無意識の淵」から忽然と浮かんできたという.このひらめきは,「実際には,われわれはみな盲目ではないか」というサラマーゴ自身の回答を引き出した.そこから,ディテールの着想が始まった.アルベール・カミュAlbert Camus)やウィリアム・ゴールディング(William Gerald Golding)に比肩する不条理文学の体をなしながら,「極限状況に置かれた暴力と破壊の伝播」をモチーフにしている点で,カミュの『ペスト』と共通性がある.ペスト菌を悪ととらえる人物と,人間対ペスト菌間の破壊的関係を悪ととらえる人物の対照を,「世界観と倫理の対立」という構図に仕立て上げたカミュの寓話との類似である.

 一方で,本書では固有名詞をすべて殺している.「最初に失明した男」「最初に失明した男の妻」「眼科医」「医者の妻」「サングラスの娘」など,名詞と状況説明で人物を指している.盲目者は,他者の視線を受け止める必要性に変化が生じ,容姿や個性の弁別を「観念的」には麻痺させた.盲目者のコミュニティには,盲いた「王」が生まれ,住民には相応の規律が王により強制される.周りを見渡す「視力」をもっている時の人々は,国家や体制,人の善悪までもが白日の下にさらされていると信じていた.実は,それこそがまやかしに過ぎないことを暗喩的に描く.視力の有無にかかわらず,権力にもとづいた意思決定は下される.その抑止の困難さが,世界を視認できる以前と以後では異なるだけなのである.人は本質的には「見る」ことでは何物をも判断していない.本書のもう一つの顕著な特徴は,技法的なことであるが,登場人物の台詞が「神の視点」と完全に区別されていないことにある.発せられた言葉がカギ括弧で括られず,他の人物との発言と状況とが渾然一体となって描写が進むのみである.一見,とても場面を把握し難い.ところが,数ページで読み手は「慣れ」る.誰が何を喋ったのかが実は明解で,論理的であることに,当初の読みにくさはすでに感じなくなる.そして,それすら意識しなければ感受しない.すべては「状況」なのである.人が喋ろうが,雨が降り,日が沈み,人が怒り,悲しみに暮れ,「白い病」が蔓延すること,そのことごとくは本書の世界観で生起する.

 物語を貫く素地の文体から,人物の台詞を記号で切り離さないサラマーゴの技法は,1982年の長編『大地より立ちて』で編み出されたものである.同じテーマを繰り返すことを好まないサラマーゴだが,この手法は繰り返し作品に登場させている.衛生観念を守ることができない盲目の群衆は,閉鎖された施設内で,食糧を原始的に奪い合い,部屋と廊下に散乱した糞便を踏みしだき,ベッドの確保に躍起となる.視力以外には健常である人々であるにもかかわらず,いかに容易く無法地帯は形成され,人間の暴力性は剥き出しになるものか――阿鼻叫喚の描写を通して,人間の精神と理性の脆弱さを人間社会に対して挑みかけている.

まわりの人すべてが失明した世界で,目が見えることがいったいどういう意味をもつのか,あなた方にはわからないし,知りようもない.もちろんわたしは女王でもない.ただこの恐怖を見るために生まれてきた人間なのかもしれない.あなた方もこの恐怖は感じるでしょう?わたしはそれを感じるし,見えるの

 なぜ,この病に冒された人々は,暗闇ではなく白夜のような明るさに支配されるのか.なぜ医者の妻だけが失明しなかったのか.物語の後半では,人間性を失わずに行動することを欲する彼女らのグループが,眼科医とその妻の自宅に招かれ,穏やかな休息と晩餐を寛ぐ場面が登場する.ここでの暮らしは,混沌とした外部世界,さらには生き地獄のような収容所の生活とは対照的に,厳かなヒューマニズムに満ちている.誰しもが本質的には盲目であることを確信していたサラマーゴが,唯一,視力を保持していた女性の手引きがなければ,良心的な人物たちが穏やかな生活へアクセスできなかったことを示す描写は,矛盾しているようにも思えるが,同時に「何も見えない」ことが「誰にも見られていない」と同義ではない含意が籠められている.

 不条理文学は,進行し続ける状況の不可解さと,非論理的な推論の上に成り立つ.その部分をサラマーゴは本書で共有していることを示しつつ,ヒューマニティ追求の一つの「形」としての文学形態を提供している.2004年に著された『見えることについての考察』は,本書の続編である.「白い病」が終息した4年後,首都における選挙で保守,中道,革新と3つの政党が争う.だが,いずれの政党も支持者が激減.83%の市民が白票を投票するという異常事態が発生する.その首謀者は,本書の登場人物「医者の妻」であるという告発状が政府に届く,という物語で,「視力があっても盲目」という状況を描いた作品であるという.器質的な盲目のパンデミックを描いた本書に対し,続編では個々の内面的な盲目の蔓延が,社会に及ぼす影響をテーゼとしていると推測するが,邦訳は未刊行となっている.

† 追 記 †

 『見えることについての考察』(邦題『見ること』)は,河出書房新社より2023年7月に刊行された.

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Title: ENSAIO SOBRE A CEGUEIRA

Author: José Saramago

ISBN: 414005543X

© 2008 日本放送出版協会