▼『本をつんだ小舟』宮本輝

本をつんだ小舟 (文春文庫)

 母が睡眠薬自殺をはかった夜,押入れの中で読んだ初めての大人の小説「あすなろ物語」.高校の天城旅行中,眠られぬまま一晩中読み続けたチェーホフ「恋について」.生涯に一度だけ父親を投げ飛ばした記憶が鮮やかに甦る「青べか物語」.よるべない青春時代を照らす一筋の光のような存在だった32冊の名作を紹介する読書案内――.

 独に耐えかね,手を伸ばした先にある本が,その苦痛を和らげることを知る人がいる.よるべない不遇時代に触れた得がたい読書経験から語られるエピソードは,本に没入することで現実逃避しながらも,実はその人が,自己との対話で生きることの感触を確かめていたことを明らかにする.

 書評ではなく評論でもなく,控えめに「読書遍歴」の覚書である,と著者はいうが,生々しい生の記録である.彷徨する舟が水の流れに淀み,ふらりと向きを変えながら旋回しつつも,波にあらがうことなく押し流されるまま漂流する.この舟には艪もなく櫂もない.人生のもっとも確実な指針は何かといわれれば,確たる「自分」であり,指針は羅針盤となりうるはずだ.だが貧しく,沈みかけたその舟は,確たる指針もなくさまよい続けるばかりであった.舟に乗って戸惑い,思案しているわけではない.方向感覚のない舟そのものが自分なのであるから,何に判断をゆだねる訳でもなく,ただ波の間を漂い続けるほかなかったのである.

 彼の"鋭い輪郭"を持った時代は,死のにおいをまき散らす肉親に対する不安に怯え,恐怖と怒りに支配されていた.酒にのめりこみ,精神を病んで市電のレールの上を歩くようになった母は,自殺未遂を繰り返す.そこまで母を追い込んだ父は,家に寄り付かず,愛人の家に入り浸った.たまに帰ってきたかと思えば,妻と息子に手を上げた.そのような男を父に持った息子の苛立ちと,母が心を壊していくのを目の当たりにする哀しみは,当事者でなければ理解が及ばない.彼は本が好きだった.彼という舟には,古今東西の本が山積みになっており,その探求が生きる糧になったことは誰にも否定されない.けれども,本というのはそれに心底没頭できる人間を選び取るものなのだ.われわれは,いつでも乗りこなせるかどうかを本から試されている.少なくとも,その感覚に襲われることを自覚している間は,本に挑戦し続ける自分の位置を確かめる作業を,余儀なくされる.

 押入れで人目を偲び,秘密を抱えるようにして本を貪り読んでいた彼は,人生に楔を打ち込む出来事もその押入れで迎えた.借金取りの目から逃れ,母とともに息を殺して押入れに隠れなければならなかった下りは,さながら襖を隔てて緊迫感を味わい,隠れた彼らの体温が伝わってくるかのようだ.10代なかばのころ,その日も押入れで本を読んでいた彼は,突然父親に押入れの扉を開けられた.「こんな昼間から何をしているのか」と父に訊かれた時,素直に「本を読んでいる」と答えるはずが,なぜか憎しみと反抗心から,生まれて初めて口答えをしてしまった.

 父は,私の襟首をつかむと押し入れから引きずり出し,私の読んでいた「青べか物語」をひったくると,ずたずたに破ってから,私を殴った.…中略…

 私は,さらに殴り続けようとする父の腕をつかんで投げ飛ばした.父は起きあがって,私にくらいついてきたが,そのたびに私は父をてもなく投げ飛ばした.そのうち,父は泣き始めた.泣きながらも,私にくらいついてくることをやめなかった.

 力尽きて,畳の上に坐り込み,父は得体の知れない動物の咆哮に似た声をあげ,両手で何度も畳を叩いて子供のように泣いた

 生まれたとき,彼は未熟児だった.あまりに貧弱だった体躯のため,父は医者から「小学校に上がるまで生きられるかどうかわからない」と言われたのだった.そのように虚弱だった息子を20歳になるまでは見届けてやる,と父は心に決めていた.50を越えてできた一粒種の子であるから,息子が成人するまでは70を過ぎても死ぬわけにはいかないと考えたからである.そんな息子が,自分を投げ飛ばすまでに成長したことが,父にとっては歓びでもあった.

 父に破かれた本は,山本周五郎青べか物語』だった.著者は山本を尊敬し,世にいう通俗作家などではなく,そのような評価を下す評論家とは毅然と一線を劃している.ばらばらになった本を集めているうちに,彼も涙が止まらなくなった.泣きながら,破れた『青べか物語』をセロテープで修理した.人間の営為を正面からとらえようとする作家が,通俗的な作家と呼ばれるのであれば,彼の作風を「通俗的」とするのはさほど抵抗を覚えるものではない.ただし,その通俗さが低俗な陳腐さ,を意味するとは限らない.

 よるべなき青春時代に,どのようにしても理解しあうことができなかった肉親との確執,人を避けようとしながらも,灯火のように自分を過ぎ去っていった人との出会いと別れ,愛憎が彼の作品には滲み出ている.羊皮紙に垂れたインクのような趣きは,かつて漂流していた一艘の小さな舟,それが悠然と漕ぎ出される船へと昇華した軌跡をイメージさせる.帰着点は定まらずとも,ただ回遊していたあの頃とは,確実に違うというべきだろう.

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原題: 本をつんだ小舟

著者: 宮本輝

ISBN: 416734811X

© 1995 文藝春秋