▼『物理学と神』池内了

物理学と神 (集英社新書)

 「神はサイコロ遊びをしない」と,かつてアインシュタインは述べた.それに対し,量子論創始者ハイゼンベルグは,サイコロ遊びが好きな神を受け入れればよいと反論した.もともと近代科学は,自然を研究することを,神の意図を理解し,神の存在証明をするための作業と考えてきたが,時代を重ねるにつれ,皮肉にも神の不在を導き出すことになっていく.神の姿の変容という新しい切り口から,自然観・宇宙像の現在までの変遷をたどる,刺激的でわかりやすい物理学入門――.

 書でいう「神」は,被造的世界と対立する存在(有神論),世界の創造以後は非干渉の立場をとる存在(有神論)とも判別できない範疇のモノとして終始扱われている.無心論者に近い池内了は,科学と宗教の神学論争はほとんど無視しているといってよい.「神はサイコロ遊びをしない」と述べたアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)は,ユダヤ教学者から「あなたは神を信じるか?」と聞かれ「存在するものの秩序ある調和の中に自らを現すスピノザの神なら信じる.人間の運命や行動に関わる人格のある神は信じない」と答えた.

 ユダヤ教会からは無神論者のレッテルを貼られ追放されたバールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza)は,人格神を否定し汎神論の立場から「神すなわち自然」(Deus sive natura)と考えていた.これに対するシンパシーを背景として,アインシュタインは物理法則の限界を皮肉ったのではないだろうか.「公理主義」,「数学」の利用,「保存則」を基本原則とするデカルト主義で座標系を用いた代数式で世界を記述しようとする近代物理学は一応誕生したということであるが,人間が世の中の現象を理解しようと努める営為全般について,本書は物理学の論理体系で説明がつかないものを「神」の御技と解釈するのである.

科学者が神を持ち出すのは,科学は全知ではない人間の営みに過ぎないことを思い出させるため,とも言えるだろう.仮託した神に法則の正しさ(誤り)をお伺いしているのだ.仮託した神はそれぞれ異なるから,異なったご託宣が出ることにもなる

 近代物理学のフィールドに神を引き込むことで,難解な専門用語に頼ることなく,常に未知なる存在の象徴が物理学とともにあったことを読み手に印象付ける.アニミズム的あるいは善のイデアの体現的な神,神への挑戦者として登場してきた「ラプラスの悪魔」「マクスウェルの悪魔」,いずれも客観的には同次元に属し,その区別はさほど重要性をもたない.物理学者といえど唯物論固執しない態度から,振幅のある発想が出てくることを意図していることと見える.

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原題: 物理学と神

著者: 池内了

ISBN: 4087201740

© 2002 集英社