▼『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』オリヴィエ・ゲーズ

ヨーゼフ・メンゲレの逃亡 (海外文学セレクション)

 A・コナー『パールとスターシャ』(野口百合子訳)で双子の少女の目を通して描かれたアウシュヴィッツ絶滅収容所ナチスの医師メンゲレ.ユダヤ人,特に双子たちを実験対象に,信じがたい人体実験を重ねた悪魔のような男.彼がドイツ敗戦後,南米に逃亡し,1979年まで捕まることも裁かれることもなく生き延びられたのはいったいなぜなのか?その謎に満ちた後半生を見事に描いたノンフィクション・ノヴェル――.

 ウシュビッツ収容所で囚人を生きたまま解剖,血液を大量に抜く,麻酔なしで外科手術を行う,有害物質や病原菌を注射,凍死するまでの時間を計測するなど,残忍な人体実験を繰り返した医師ヨーゼフ・メンゲレ(Josef Mengele)は,"死の天使"と呼ばれた.戦後,ナチ戦犯の多くはパラグアイ,チリ,アルゼンチン,エクアドルボリビアなどラテンアメリカ圏に逃れた.これら軍政諸国では,全体主義を最大の特徴とした反ユダヤ主義政策が行われなかったためである.メンゲレは,1949年にアルゼンチンに逃亡,さらにパラグアイからブラジルのセラ・ネグラに高飛びし以後20年近くの潜伏生活を継続した.

人間的な感情にほだされることは皆無.憐憫は弱さだ.絶対権力者の鞭の一振りで,犠牲者たちの運命は封印されてしまい,左に振れば即,死,ガス室送り,右に振れば緩慢な死,強制労働をさせられるか,より寛大な世界である彼の研究室に送られ,『適切な人的材料』(小人,巨人,障害者,双生児)として,輸送列車が到着したその日から,食事が与えられることになる.それから注射,身体測定,採血,切断,殺害,解剖.そして,彼が自由に使える実験材料を集めた小児動物園,それは双生児出生の謎を解き明かし,超人を製造し,ドイツ人の生殖力を高め,いつの日か,スラブ人から奪った土地に農民兵士を住まわせ,アーリア人種を守るためのものだ.人種の純血の守り神にして,新たな人類を誕生させる錬金術

 アルゼンチンのペロン政権,SS同志会やルデルクラブの支援を受けたメンゲレは,ナチ・ハンターやイスラエル諜報特務庁(モサド)の追跡を逃げ延び,1979年にサンパウロの海岸で海水浴中に心臓発作(あるいは脳卒中)を起こし,溺死した.本書は,"死の天使"の逃避行を,4年の調査で執筆したノンフィクション・ノベル,あるいはファクション――factとfictionの合成語――である.元ナチ高官アドルフ・アイヒマン(Karl Adolf Eichmann)逮捕のため,モサドはメンゲレがブエノスアイレスに潜伏していた事実を一時は掴んでいたが,アイヒマン逃亡のリスクを考慮してメンゲレを「放置」した.中東のアラブ戦争でモサドの捜査力が弱まった時期,さらにラテンアメリカ共産主義の台頭を懸念した西ドイツ当局は,メンゲレ逮捕の交渉でコミュニストを刺激することを回避すべきと考えた.

 国家主権をめぐる外交と国際政治のバランスの"エアポケット"に,メンゲレは巧妙に潜んで難を逃れ,確かに戦争犯罪人として告発されながら,逮捕されることも裁かれることもなく寿命が尽きたのである.だが,したたかな強運の持主ではあっても,晩年は孤独と苦悩,極度の神経衰弱に苛まれていた.彼がドイツに残した息子ロルフ・メンゲレ(Rolf Mengele)は,ブラジルまで訪れ21年ぶりに再会した父に問うている.「パパ,アウシュヴィッツでは何をしたんです?」.メンゲレの答えは,終戦後,華々しい勝利を収めた第三帝国の功労者としての評価が待っていると疑いもしなかった狂気の医官時代と,変わらぬ徹底した自己正当化と責任転嫁であった.ロルフは父を見捨てて帰国し,最晩年のメンゲレは絶望に苦しんだという.

ドイツ科学の一兵卒としての私の義務は,生物学から見た有機的共同体を守り,血を浄化し,異物を排除することにあった.毎日数千人単位で収容所に到着する囚人を分類,選別し,不適応者を除去すること…中略…われわれの総統の命令に従って,法律的にも精神的にも任務を遂行するのが私の義務だった.私には選びようがなかった.アウシュヴィッツを,ガス室を,焼却炉を作ったのは私ではない.私はたくさんある歯車のうちの一つでしかなかった.一部にやりすぎがあったとしても,その責任は私にはない

 ロルフは1980年代に妻の姓になり,ミュンヘンで弁護士活動に従事した.彼は1944年にメンゲレの息子として生まれたが,アウシュビッツ収容所の主任医官時代,メンゲレが執着したのは一卵性双生児であった.双子の背中同士を合わせて静脈を縫い合わせることで人工の「結合双生児」を作る実験,子どもの目に化学薬品を注入して瞳の色を変更する実験などを行った.玩具やチョコレート,キャンディを手にした柔和な表情の医師を,選別された双子たちは「ヨーゼフおじさん」と慕った.自らお気に入りの双子の少女をドライブに連れていくこともあったが,数日後,その子らを人体実験「材料」とするのになんの躊躇もなかったという."死の天使"が,双子に関する一連の「実験」を開始したのは,1944年であった.

++++++++++++++++++++++++++++++

Title: LA DISPARITION DE JOSEF MENGELE

Author: Olivier Guez

ISBN: 978-4-488-01666-1

© 2018 東京創元社