▼『赤露の人質日記』セルゲイ・エリセーエフ

赤露の人質日記 (中公文庫 M 38)

 日本留学を終えた著者が,帰国早々ロシア革命に遭遇,投獄・迫害の三年間を耐えて亡命に成功した経験をつづる.革命下の異常な体験を,全文日本語で,生々しく記した貴重な記録――.

 田神保町の1丁目から3丁目にかけては,世界最大規模の古書街が広がっている.この一帯を,米軍による爆撃の標的から外すようダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)に進言したセルゲイ・エリセーエフ(Serge Elisséeff)の自伝.ロシアのブルジョワ「エリセーエフ商会」の御曹司であったエリセーエフは,少年時代に絵画の手ほどきを受けている.歌川広重葛飾北斎など浮世絵を教わり,日本への関心を強めたという.明治41年東京帝国大学文学部に留学生として入学すると,上田万年芳賀矢一らの指導を受けた.

 袴を穿いた「碧眼の書生」は,女中付きのしもた屋に住み,寄席に通って流麗な江戸弁の言葉遣いを身につけている.日本舞踊の衣装は高島屋で誂え,女装を嗜むこともあった.久保田万太郎谷崎潤一郎永井荷風らが出入りするサロンにも足を運んだ研究ぶりは,大変に人目を引いた.夏目漱石の紹介で「朝日新聞」文芸欄にロシア文学の論評を発表するようになったエリセーエフは,朝日新聞の依頼で革命体験談を日本語で著し,それが本書として大阪朝日新聞社から単行本で出版される.

 ロシアに帰国後,ペトログラード大(サンクトペテルブルク大)で日本文学・日本語を講じていた折,ロシア革命でエリセーエフ商会の財産は没収,言論統制で逮捕・投獄の難に遭う.拘留で心の支えとなったのは,数冊隠し持っていた漱石の小説だった.論文の入った行嚢をボリシェビキに押収され焼却されたこと,アルコール密輸入に密航し家族とフィンランドに亡命したことが生々しく本書には述べられる.フランス国籍を取得するも,生活のためにはソルボンヌ大の高等研究院ではなく,ハーバード大に所属し東洋語学部開設に尽力し,エドウィン・O・ライシャワー(Edwin Oldfather Reischauer)など優れた東洋研究者を多く育てた.

 エリセーエフの日本に対する愛憎は,庶民文化と文学への愛着や理解として,また軍国主義への嫌悪となって現れる.真のジャポノロジストの一人であったことは疑えないが,ハーバードでは米軍将校の日本語訓練計画の作成・実施に関わり,対日戦線に少なからず責任を負った.それにエリセーエフがどこまで積極意思をもっていたかは不明.だがその立場があったから,神田古書店街保護の進言を可能にしたということかもしれない.アメリカの全体的雰囲気にエリセーエフは馴染むことはなく,「野猿坊の国」と突き放した見方を崩さなかった.

++++++++++++++++++++++++++++++

Title: -

Author: Serge Elisséeff

ISBN: 9784122003897

© 1976 中央公論社