▼『津田梅子』大庭みな子

津田梅子

 幼い魂に刻みつけられ,培われ,熟成し,ついに発酵し始めた想念.新発見書簡資料をもとに鹿鳴館前夜の日本へ帰って来た女性梅子の100年の夢をたどる――.

 京都小平市にある津田塾大学には,創始者津田梅子の墓標がある.その周りを取り囲むのは,40本を超える梅林.馥郁たる香りの花は自己をひけらかすことなく爽やかで,ふくらむ蕾は月夜によく映える.派手さはないが,優美さをたたえた花は万葉集巻一,四百には“梅の花咲きて散りぬと人はいへどわが標結ひし枝にあらめやも”とある.1984年,津田塾大学本館のタワー内で,津田からアデリン・ランマン(Adeline Lanman)にあてた30年にわたる書簡が発見された.その数はおびただしく,数百通にもなる.1900年9月,津田塾の前身女子英学塾の開校式の式辞で,梅子は,「ふしぎな運命で,わたしは幼いころ米国へ参りまして,米国の教育をうけました.帰朝したならば,…これという才能もありませんが…日本の女子教育につくしたい,自分の学んだものを日本の婦人にもわかちたいという考えで帰りました」と自分を語っている.

 「ふしぎな運命」は,開拓使女子留学生の募集に幼い梅子を応募した父,津田仙によって開かれた.応募当時,梅子は満7歳で開拓使女子候補の最年少者だった.外務卿岩倉具視の協力の下,留学経費は国費負担が決定したが,娘を国外へ出そうと考える親はきわめて少なく,5人の応募が集まり,その5人が女子開拓使に任命されることになった.梅子が渡米した1872年は,南北戦争が終わった7年目である.この頃のアメリカは,アングロ・サクソンの理想精神と,即物的意欲に象徴される剛健な現実的精神,大きな2つの流れが近代国家を築きつつあった.そのような異国の黎明期にあって,その地に降りた幼い梅子は,新風を全身に浴びた.

 梅子はワシントンに着くと,吉益亮子とともに,日本弁牟使館チャールズ・ランマン(Charles Lanman)の家に10年間寄寓した.数え年9歳からの10年は,実に大きな影響を少女の多方面に及ぼす環境だった.梅子はこの夫妻と親睦を深め続けた.夫妻は梅子をわが子のように可愛がり,決して彼女に信仰を強いることはなかったが,梅子は自発的に洗礼を受けたいと申し出た.しかし,洗礼を受けさせる際,梅子に宗教的偏見をもたらすことを恐れた夫妻は,どの教派にも属さない独立教会で洗礼を受けさせている.アメリカの精神に薫陶を受ける機会に恵まれた梅子は,アメリカのプラグマティズムをどのように考えていたのだろうか.後年,梅子は手紙でこう記している.「日本人はアメリカ人のように乱暴だったり,動作が速かったり,騒々しかったりすることはなく,大変静かな国民」「アメリカ人を粗野で繊細さに乏しい,静かでない,自己抑制に欠ける国民だと非難しなければなりません」.

 この文の意図しているところは,アメリカを批判しながらも,国民性の現れ方は国ごとで異なるのは当然だとする異文化理解,そして,アメリカを実見した自分であるから,アメリカと日本を対比できるという自負である.梅子は1892年に帰国した.ほどなくして,華族女学校教授補として奉職するが,彼女を最も悩ませたのは,ラディカルな人格をもった女性に成長してしまったがゆえに,封建的な日本の女性像に自分がそぐわないことを強く意識してしまったことにあった.明治政府の示した女子教育とは,教育制度は男性のためにあり,女子には日常的な生活技術教育以外は修める必要性がないという,いわゆる良妻賢母教育だった.社会的に女性の地位を認めない日本の実態と,華族という特権を利用して男性に隷属し,独立の精神が欠落している女性の姿に梅子はおおいに失望したのである.

 華族女学校の好意により,梅子は2度目の留学(3年間)をブリンマー・カレッジで過ごした.数理が得意だったので,生物学を専攻に選んでいる.女子の高等教育に資するという,情熱的な目的を秘め,そのためには高い学識を身につけなければならないと考えた梅子は,大学の教授との共同研究で論文「蛙の卵の発生について」をまとめ,そのかたわら「日本婦人米国奨学金」を立ちあげ,8,000ドルの基金を作り上げた.米国に残って,生物学者の道が梅子になかったわけではない.共同論文は権威ある学術雑誌『マイクロスコピカル・サイエンス』に掲載され,優秀な成績だった梅子は,研究者として残ることを大学から要請されていた.だが,女子教育に尽力することが自分の使命と考えた彼女は,それを固辞して帰国し,1900年女子英学塾を開いた.ほかでもなく日本の女性のための教育を志したためである.女子英学塾といっても,面積わずか82坪,生徒は10名しかいなかった.設立は高等女学校令が出された1899年,それ以後女子教育が整備され,女学校が多く誕生した(1901年には全国で70校).その一方で,女子のための専門学校は設立されていなかった.そこで梅子は15年勤めた華族女学校を辞し,英学塾を建てた.

 1933年「女子英学塾」から「津田英学塾」と改称され,1943年,理科増設認可とともに「津田英学塾」から「津田塾専門学校」と改称されている.ブリンマー大学と津田塾大学は,現在に至るまで交換留学協定を結んでいる.女性初の留学生は,9歳から異国の地で生活することとなり,そこで培った性格は,封建的な日本女性では考えられないほど自由で,快活で,独立した価値観だった.しかし,それを実践するために,伝統的な日本人女性の姿を壊すことはならないと梅子は考えた.式辞で述べた女性像は,彼女自身の考える女性ではあるけれど,慎ましさと寛容な人格,自信といった特質を備えた女性が,これからの日本では求められていくと信じたのだろう.かつて洗礼を受けようとした自分を否定することなく,観念を固着化することをやんわりと避けてくれたランマン夫妻の愛情を,梅子が確かに受け取っていたことを物語る.ピューリタニズムとヤンキイズムが大勢を占める時代のアメリカに思春期を生きたにもかかわらず,日本人女性への配慮を忘れることなく,女子教育に携わることができた梅子の真髄は,10年間のランマン夫妻との家族同然のつながりに相当程度求められよう.以後数十年も継続した夫人との私信のやりとりは,アメリカ文化を身につけた梅子が日本で受けるつらさをすくい上げる経路ともなった.

 梅子は,初7日が過ぎても名づけられることがなかった.男子が生まれなかったことを残念がり,父の仙は,はじめこの女児に全く構わなかったようだ.母親の初子が庭の盆栽の梅の花がほころんでいるのをみて,「うめ(むめ)」と名づけた.その梅は,キャンパスを囲み女学生の生き方を今も見守り続けている.花は散り実がなる.毎年,この梅林から採れる梅の実は,300-400kgにもなるという.多くの大学が門出を桜の花で祝う中,津田塾では梅の花がその役目を担い,時には,木々を飛び交う鶯を風物詩に楽しむこともできる.そこにあって,屈託のない人柄だった梅子を表すような,爽やかな香りの花が,満ちてほころぶのである.

津田梅子

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原題: 津田梅子

著者: 大庭みな子

ISBN: 402256153X

© 1990 朝日新聞社