▼『永山則夫』堀川惠子

永山則夫 封印された鑑定記録

 日本社会を震撼させた連続射殺事件の犯人,永山則夫.生前,彼がすべてを語り尽くした膨大な録音テープの存在が明らかになった.一〇〇時間を超える独白から浮かび上がる,犯罪へと向かう心の軌跡.これまで「貧困が生み出した悲劇」といわれてきた事件の,隠された真実に迫る――.

 法・民法上の裁判に際して,被告人の責任能力,行為能力,証言能力の有無を判断するために,法廷から依嘱をうけた精神医学者による精神医学的ないし心理学的な検査,それに基づく臨床報告がなされることがある.一般にこれを「精神鑑定」と呼び,裁判における参考資料として用いる.鑑定書は,原則非公開である.ただし,社会的インパクトの大きい事件に関する鑑定の学術的意義が認められる場合や,法実務への寄与が期待される場合に公開されるものがある.1968年に4人を殺害した連続射殺犯永山則夫についての精神鑑定は,一審では検討材料とされたものの,最高裁の差し戻し決定以後,ほとんど顧みられることはなかった.永山は,1997年8月1日に死刑執行されている.彼に対する精神鑑定を引き受けたのは,WHO研究員としてロンドン大学精神医学研究所を経て,八王子医療刑務所医務部に勤務していた30代の精神科医石川義博だった.石川は内外の施設で非行少年の治療実践に携わってきた知識を総動員して,182頁に及ぶ長大な鑑定書を作成した.

 心を閉し,公判で証言を拒む一方,葛藤をノートに綴っていた永山の内面に迫るため,石川は徹底的な傾聴によるカウンセリング手法を採用している.通常の精神鑑定は2~3カ月で完成されるが,石川は9か月の期間で鑑定を実施,100時間の面接を録音テープに保存した.逮捕後の永山則夫が獄中で過ごした28年の日々を取材した経験をもつ著者は,永山の肉声テープを保管している石川のもとを何度も訪れ,情報提供を依頼している.それを断り続けた石川は,とうとうテープを著者に預けることにした.折れたというより,ジャーナリストとしての取材姿勢に信用を与えたからだろう.30年以上前の録音テープは保存状態がよく,全部で49本あった.これを繰り返し再生するなかで,原因不明の高熱を出しながら著者は本書をまとめあげたという.徐々に,朴訥に半生を語り出す永山の肉声.その全容から浮かび上がってきたのは,この事件を一般に解釈されてきた「無知と貧困による犯罪」「高度化する資本主義の矛盾」とは異質の,「家族を拠りどころとする〈人間〉の理解」を軽視した"社会の失敗"ということだった.

永山は,獄中に入ってから必死に勉強した.あらゆる書物を読破し,マルクス主義を学び,本を出版するまでになった.無知だったかつての自分を否定し,学問を知るひとりの人間として社会に発言することに生き甲斐を見出すようになっていた.その猛勉強ぶりも,石川医師が鑑定書で指摘したような劣等感の裏返しだったのかもしれないが,『精神病に近い精神状態』という,石川医師がぎりぎりまで配慮して表現した診断結果は,彼がようやく手に入れた自尊心をも酷く傷つけることになった

 石川鑑定で分析される永山の生い立ちと「精神未成熟度」は,鑑定主文第二項「20歳未満の無知で成熟していない判断力等の諸要因が複雑に交錯し増強し合った結果」,第四項「全体として人格は成熟と統合の途上にある」という点に収斂される.責任能力の有無という法医学視点よりも,これを放置した社会の「失敗」を認める形で,一審判決は4人の命を奪った19歳の少年を情状酌量して無期懲役としたのであるが,最高裁判決では死刑が確定した.その際,石川鑑定への言及は一切なかった.石川の絶望は,裁判所の決定だけではなく,むしろ永山本人が鑑定書に対して絶対的な拒絶を示したことだった.永山にしてみれば,近親者の精神病歴まで調べ上げ,自分もその系譜にあることを赤裸々に公表する鑑定書に,怒りと驚愕を覚えたのは当然のことだった.しかし,30代の医師には,それを受け止める度量がなかったのだ.

 鑑定に膨大な時間とエネルギーを費やした努力も,まったく評価されなかったことを痛感した石川は,イギリスで最新の精神医学を学んだ自負を考え直さざるを得なかった.彼の結論は,精神医学者として将来を嘱望された大学を去り,在野の医師として生きる,ということだった.永山事件以後も,少年犯罪の精神鑑定の依頼が数多くあったというが,すべて石川は断っている.「人間は保護者によって愛情を注がれ,依存欲求を満たされ,安定感が得られなければ,愛情と良心を健全に育てることができず,逆に不信感と攻撃性が高まる」とコンラート・ローレンツ(Konrad Zacharias Lorenz)らは述べている.それを体現する存在が生み出されることの理解は,いまだ十分ではなく,事件の結果としての恐怖ばかりが周知される風潮は根強い.石川鑑定は,少年犯罪の当事者の鑑定として,長期のインタビュー時間を費やしていたことが,本書の取材過程で明らかにされた.通常,精神鑑定の信頼性を担保するために,鑑定人には中立性や公平性が最も重視される.異例ともいえる長期間のカウンセリング手法を採った石川鑑定の手法には長短があるだろう.2009年の裁判員制度施行後は,特に鑑定期間の短縮化が図られている.

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原題: 永山則夫―封印された鑑定記録

著者: 堀川惠子

ISBN: 9784000241694

© 2013 岩波書店