▼『ジーキル博士とハイド氏』ロバート・ルイス・スティーヴンソン

ジーキル博士とハイド氏 (新潮文庫)

 医学,法学の博士号を持つ高潔な紳士ジーキルの家に,いつのころからかハイドと名乗る醜悪な容貌の小男が出入りするようになった.ハイドは殺人事件まで引起こす邪悪な性格の持ち主だったが,実は彼は薬によって姿を変えたジーキル博士その人だった.人間の心に潜む善と悪の戦いを二人の人物に象徴させ,“二重人格”の代名詞として今なお名高い怪奇小説の傑作――.

 病でロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson)にシンパシーを感じていた中島敦は,評伝『光と風と夢』で,光の降り注ぐサモア諸島でのスティーブンソンを描いた.スティーヴンソンの傑作は,イングランド南海岸のボーンマスでの長編『プリンス・オットー』を代表に,保養地や静まり返った環境で生み出されている.結核の静養に温暖な南洋を医師から勧められ,執筆したのは冒険物語や怪奇譚.

 サモアでは原住民に「ツシタラ」(酋長)と慕われ,弁護士でもあったスティーヴンソンは,現地の訴訟の調停も買って出た.「ジキルとハイド」は,二重人格の名詞的用法を確立するほどにヒットし定着した.温厚な紳士で名望あるジーキル博士が,調合された特殊なエーテルを用いて,変身し欲望を遂げる.やがて彼の心身は,凶悪残忍なハイドという変身後の「分身」に乗っ取られる.そのプロセスの狭間に,死を覚悟し僅かに残る理性で手記をしたためる.

 大柄なジーキル博士が小柄なハイドに成り変わることから,人格だけが変貌を遂げるのではなく,心身の「存在の転換」を扱った怪奇物語となっている.これを性善説性悪説の鬩ぎ合いとみるなら,明らかに悪が善――あるいは悪を躊躇する良心――を凌駕している.ジーキル博士はハイドを恐れ激しく憎むが,悪辣無比なハイドの方は,入れ替わる別人格ジーキルに拘泥していない.富裕な生まれにして傑出した才能,信望を得たジーキル博士も,大多数の人間と同じく「より善き自己を選びながらそれを守り抜く力」が欠けていたと告白する.

 巨大すぎ放恣な悪を,柔弱な善意と理性は御し得ない.大ベストセラーとなった奇妙な物語は,ある時スティーヴンソンが見た夢がベースになって完成された.暗い戸棚に閉じ込められた男がいる.そこで薬を飲んだ男は,別人となってしまった.これをアイデアとして,たちまち書き上げられた第一稿は,小説好きの妻に「寓意がなく面白みに欠ける」と批判された.3万語からなる第2稿は,わずか3日間で書き上げられ,10週以内に印刷された.

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Title: THE STRANGE CASE OF DR. JEKYLL AND MR. HYDE

Author: Robert Louis Stevenson

ISBN: 9784102003015

© 1989 新潮社