「ルネサンスには光だけでなく闇もある」という視点で,フィレンツェを舞台に,個性に富んだ人物たちの幻を引き出し,それらのドラマを分析した「物語」の数々を収録する――. |
ルネサンスには光だけでなく闇もある,そのことが理解されない誤りがなかば常識化していることは,もっと大きな誤り――著者の使命感は,これだけを端的にみても,なんのことやら解らない.ルネサンス(「再生」).健全なイメージを抱いてしまうが,それが健康的ではないニュアンスをも含むものととらえる,アフォリズムをきこう.
ルネサンスが複雑怪奇な黴菌を詰め込んでいると同じく,フィレンツェはあらゆる物象に黴菌の跋扈を許している
フィレンツェとベネツィアを6回訪れ,ローマをやり過ごした著者は,「フィレンツェの方が性に合う」と一息ついている.ルネサンスの批判点を掘り起こそうとするその理由は何か.本書は,ルネサンスの花開いた歴史的インパクトをもつ,フィレンツェという街で詩人,エッセイストらしくやさしい文章でつづられた手紙のまとまりの体をなしている.けれども,手紙に織り込んだ詩人の眼から見た物語には,「常識では解けない迷宮的要素」がルネサンスを遠景にとどめているという先鋭な批判が潜んでいる.この地から日本という東のはずれに息づく大切な人は,編集者,デザイナー,僧侶,神学生,わが娘,神学生各位.最後に,第12信「G君へ」で投信は終わる.G君とは,ほかならぬ彼自身のことである.
ルネサンスの潮流は,学徒勤労動員で軍需工場から学校へと戻ってきた少年を新しい世界へと導いた.敗戦から立ち上がり,それまでの忠誠心や死生観から解放された少年にとって,西欧世界の進行方向を人間の情意の再来に規定する,文化史・精神史の上での転換は,日本とイタリアの境遇のオーバーラップを想起して奮い立たせた.ファシズムにさらされて日独伊三国同盟を刷り込まれた世代にとっては,カルチャーギャップを感じるにあまりあった.この時,詩人の川崎洋と級友を交えて討論をした.ルネサンスによりフィレンツェで花開いた芸術に,天才が関与したことは間違いない.では,天才が出現する条件とは何かということである.
著者は,「天才を生み出すには富力が必要だ」と主張した.メディチ家という巨万の富が美の芸術を競わせたのであって,才があっても経済的な保証がなければ開くものも開かない――この討論の内容が教師にまで漏れ,彼は校長にまで「唯物論者にして極左思想の持ち主」とレッテルを貼られることになる.しかし,考えのおもむくところをそのまま表現したに過ぎないのであり,なんら思想的補強を必要とするものではなかった.このようにして,日本人がルネサンスの勃興が日本人の価値観に影響を与えた只中に著者は身を置いていたのであった.
ところで,わが国ではルネサンスは長らく「文芸復興」と意訳されてきたが,あまり正しいとは思われない.古典文化の復興運動をルネサンスというべきだが,それを文芸とまとめてしまっていいのかどうかという問題をはらんでいる.ルネサンスの芸術家の間には,プラトニズムがうずまいていた――紀元3世紀ごろにプロティノス(Plotinos; 205?-270)が推進したプラトン主義を復興させたもの,ただしくはネオプラトニズム――.その基準が,ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)《ダビデ像》に影響を及ぼしている.周知のとおり,ダビデ(David;在位前1000-前961頃)は第2代イスラエル王国の国王,統べる者として尊敬を集め,イスラエルの再建はダビデの子孫によってなされるとされる偉大な王.そのダビデの像,第1に,なぜこのユダヤの民が裸身を堂々とさらしているのか.オリンピアの競技で男たちの裸身を競ったギリシアの全裸崇拝の影響であると考えられる.第2に,この像は割礼がなされていない.いうなれば,このダビデは包茎なのである.ギリシア人は割礼をしない.しかし,イスラエルの民はそれをする.現に,「創世記」にはダビデがその洗礼を済ませたことは叙述されている.ミケランジェロのダビデ像は,ギリシアの芸術観を色濃く受け継いで創られたものと考えるほかにない.さらに,このミケランジェロの思惑が成功したことを示す部分がもう1箇所ある.それは,ダビデの臀部である.
男の美形か否かの決めては臀部にあると言われるのは,おそらく古代ギリシアで決まった評価基準でしょうから,プラトン主義であるルネサンスの芸術家たちがその基準を踏襲するのに不思議はありません
これがまず,フィレンツェの輪郭を教えてくれるミケランジェロのダビデ像との接触ということである.フィレンツェは旅人にたやすく心を許してくれない.リルケ(Rainer Maria Rilke)もそう書いた.ベネツィアとの比較において,宮殿は沈黙して疑いの眼を旅人に向け,媚態とは程遠い.これがリルケのみたフィレンツェの骨格であり,それに共鳴する詩人が感歎とともに書簡にしたため,さらにそれをわれわれは読むことが可能なのである.
メディチ家とパッツィ家の対立が,メディチのロレンツォ(Lorenzo de' Medici)と弟のジュリアーノ(Giuliano de' Medici)を襲撃し,弟が落命したこと.政治的な暗闘がこのような対立に終止符を打とうとした一方で,数々の芸術家がロレンツォの庇護を受けて危険を免れたこと.それらに疑問を挟まずうのみにするような野暮なことはしない.しかし,本書でベッキオ橋を揶揄するのは,いくら詩人だからといっても僭越にすぎるのではないか.なんといっても,ダンテ(Dante Alighier)が理想の女性ベアトリーチェ(Portinari Beatrice)と出会った橋だ.今のフィレンツェで,オートバイにまたがった男が女をナンパしたり,ガムをくちゃくちゃしているくらい大目にみてやってほしい.聖域が俗域に成り下がったわけでも,芸術の都の冒涜でもない.橋にたむろしてひどいアクセサリーを行商する商人も憎む必要はない.第2次大戦のときでも,連合軍はこの橋の価値を惜しんで,爆破することをやめたのだ.血の臭いと香水の匂いが入り雑じるフィレンツェを,ことさら敵視しているわけではないのだろうが,そんなフィレンツェが不憫でならないのだ.
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原題: フィレンツェからの手紙
著者: 松永伍一
ISBN: 4621052586
© 1998 丸善