▼『小泉八雲集』小泉八雲

小泉八雲集 (新潮文庫)

 日常の生活,風俗習慣から,民話,伝説にいたるまで,近代国家への途上にある日本の忘れられた側面を掘り起して,古い,美しい,霊的なものを求めつづけた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン).彼は,来日後,帰化して骨を埋めるまで,鋭い洞察力と情緒ゆたかな才筆とで,日本を広く世界に紹介した.本書には,「影」「骨董」「怪談」などの作品集より,代表作を新編集,新訳で収録した――.

 泉八雲の写真,それは必ず横顔か目を伏せた表情になっている.16歳の時に左眼に怪我を負い,以来,隻眼となった八雲は,その左眼を庇うようにしてカメラの前に立つようになった.失われた日本の姿を,「物の怪」伝承に見出そうと努めた彼は,近代日本が忘れるべきではない国の姿を「忘れえぬ記憶の伝承」として書き続けた.この閉ざされた国の立ち会ってきた内面生活と情緒,それこそがひっそりと呼吸する“日本の面影”.日本的情緒を旺盛に西洋に紹介するかたわら,当の日本内部に自覚すべき要素を示したのである.彼の傾倒した“物の怪”とは,単なる怪異ではなく,日本の八百万の神々と源を同じくしている.その神々が集う出雲,その旧国名にかかる枕詞「八雲立つ」にちなみ,旧名パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)を日本名に置き換えて名乗ることにした.八雲は,片目の失われた視力に反して,内外両面からわれわれが普段眺めることのできない一側面を凝視した.

 普段の振る舞いにどう意味づけが与えられてきたものか,そのルーツを意識していることは少ない.特定の宗教が特別な勢力を振るうことが西洋諸国と比較して――相対的な比較として――乏しいこの国では,道徳心や倫理の涵養に2つの存在が大きな意味を持ってきた可能性がある.第1に,共同体による監視である.世間の目が不正を見過ごすことはない――家族を含めた村八分に陥ることを回避するため――個人の言動に厳しい節制が布かれてきたという側面.第2に,日本人の深奥に深く根付いている祖霊信仰である.

 仏壇,社,依代に祖先の霊がお盆に限っては宿り,それは迎え火とともにやってきて,送り火とともに去っていく.虻や蝶に姿を変えて霊が飛来することが信仰され,精霊の宿る樹木に先祖もまた宿ると崇められる.ススキの穂や茅の束,それらに依ることで,実体のない霊魂は存在を現世の人々に知らせる.それが祭祀の対象となってきた.こういったことが普段,われわれの儀式として執り行われることに対して,さほど疑問視されることはない.それは疑問を挟むこと自体が不埒だと何となく躊躇するせいもあるが,躊躇するということは心理的に抵抗感があるからである.このように八雲は考え,人が怪異や妖に触れるのは,人間の中にghostly(霊的なもの)が息づいているからだと述べた.人間の中にある霊的な触覚や心性が外界のなにかと面したとき,そこに投影された「影」が,もともとは実体を持たない霊や魂などに「かたち」を与えて立ち現れるからではないかと.

 八雲の理解した日本人の「自己」と「祖先」との関係について,上田和夫が指摘するように,ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)の進化論哲学と,仏教の輪廻思想のつながりで「集合思想」の考察を日本人の「日常生活の影」として見出すことができる.存在している自己は祖先から続く系譜の一コマであって,長い因果の流れの中には,自己の人生とは結局,祖先からの受け渡しの瞬間の1つでしかない.そのような認識があって,祖先を崇拝し,供養し,感謝の念が育まれていく.そのことを八雲は「面影の集合体」と呼んだのである.

 八雲が日本人の精神と風土を理解しようと努力できたのは,彼自身の持っていた背景が大きく寄与している.アイルランド人を父に持ち,ギリシア人を母とするラフカディオ・ハーンは,ギリシアレフカダ島に生まれた.“ラフカディオ”はこの島の名にちなんでいる.母にはアラブの血も混じっており,後年,日本での八雲(ハーン)は「自分には半分東洋の血が流れているから,日本の文化,伝統,風俗習慣などに接しても,肌でこれを感じることができる」と得意気に語ったという.少年時代をアイルランドで過ごした後(この頃両親は離婚した),イングランド,フランスに学び,アメリカのニューオリンズで「デイリー・アイテム」や「タイムス・デモクラット」などの新聞記者として活躍した.そのかたわら,『支那怪談』や諸国のクレオール文化を論じた『飛花葉集』を書いた.雑誌専属の特派員記者として横浜港に来日したが,条件面で出版社と衝突し契約を破棄.1890年4月の朝,初めて日本の土を踏んだハーンは,日本に永住することになった.

 4か月ほど横浜に滞在して,神社仏閣を訪ねたり,鎌倉や江ノ島で日本の神秘を探訪した.その後,島根県立中学校の英語教師として赴任,ここで生涯の親友となる西田千太郎と知り合い,彼の世話で武家の娘小泉節子と結婚した.1896年,神戸で英字新聞の記者をしていたハーンは,日本に帰化して名前を「小泉八雲」と改めた.『古事記』から取った名前で,出雲の松江にゆかりの名前でもある.同年,東京帝国大学の教員となったが,1904年に早稲田大学に招聘された半年後,狭心症で亡くなった.

 八雲には,オリエンタリズムとエキセントリズム,さらにはグローバリズムまで根付いていた.両親の影響でギリシア多神教文化,アイルランドケルト文化に触れることが多く,各国を遍歴した後は日本人女性と結婚し,日本の昔話を妻から語ってもらうことで物語にのめりこみ,ストーリーの再構築を行い,アメリカや日本に改めて紹介し続けた.聞き書きした物語をリライトすることを「再話」というが,八雲の場合,このアプローチだけではもちろんない.『今昔物語』『雨月物語』『夜窓鬼談』『日本霊異記』など日本神話や民俗伝承,霊異譚に触れながら,八雲は確信を得ていく.この国は古代ローマ社会と同じく,死者が生者を支配する伝承文化をもっている.近代化のうねりの中で,それに気づく外国人も日本人も乏しい.しかし,このことは幻想的な素材への執着よりももっと根深いものとして,日本に確たるものとして存在している.その洞察を欠いては,近代国家の途上で道を誤るのではないかという懸念であった.そして,国の発展は途上であっても,「社会道徳の面で日本の果たした進歩は西洋におけるものよりもはるかに大きい」と信じて疑わなかったことである.

現在,日本の若い世代の人たちがとかく軽蔑しがちな過去の日本を,ちょうどわれわれ西洋人が古代ギリシア文明を回顧するように,いつの日にか,かならず日本が振り返ってみる時があるだろう.素朴な歓びを受け入れる能力の忘却を,純粋な生の悦びに対する感覚の喪失を,はるか昔の自然との愛すべき聖なる親しみを,また,それを映していた今は滅んだ驚くべき芸術を,懐かしむようになるだろう.かつて世界がどれほど,光にみち美しく見えたかを思い出すであろう.古風な忍耐と献身,昔ながらの礼儀正しさ,ふるい信仰のもつ深い人間的な詩情――こうしたいろんなものを想い悲しむことであろう.そのとき日本が驚嘆するものは多いだろう

 本書は,「怪談・奇談もの」及び「日本観察・日本文化」が収められた構成をとっている.『英訳古事記』などの翻訳,アイヌ琉球の研究で知られるバジル・H・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)は,日本贔屓では八雲の先輩で,八雲との書簡のやり取りも幾度となく行っていたが,八雲の死後,彼への評価を変質させた.八雲の描いた日本は幻想であり,最後は日本に幻滅したとするものである.八雲は理想化した日本に幻想を抱いており,それを面影として注視しすぎたのではないかというのである.この意見に同意するべきかどうかは難しいところだが,八雲はいたずらに日本を賛美したわけではない.八雲は,14年間の日本生活で古い日本と西洋の合理主義との対比を通して,日本の礼賛を数々の評論で残しているが,邪道ともされかねないクレオール文化を八雲が理解する器量を備えていた.それが西洋人の勝手なエキセントリズム,と評することをよい意味でさまたげ,当時としては奇蹟と呼んでもいいくらいの“共感的なグローバリズム”を持ち合わせた人物だった.そして,怪談・奇談の類であっても,読後感はなぜか気分が悪くなることがない.食人鬼,雪おんな,死霊,生霊などがグロテスクに跋扈する話であっても,尊ぶべきものを尊び,恐れるベきものを畏怖する「日常生活の影」を冷徹に眺望し,不思議な清涼感が漂っている.

 最後に,八雲の人となりを少し書いておこう.八雲は完璧主義だった.ニューオリンズで新聞記者をしていたとき,彼のあだ名は「オールド・セミコロン」というものだった.古風な句読点とでもいえるだろうか.それほど,句読点一つであっても自分の書いた文章に添削を加えさせなかったということだ.1903年東京帝国大学を解任された時,学生がこれに反発して激しい留任運動が起きた.これに驚いた大学は,授業時間と俸給を半減するという妥協案で八雲を慰留したが,八雲は拒絶した.著作に専念するためである.後任は夏目漱石上田敏だった.この騒動について,歌人川田順は「ヘルン先生(八雲の愛称)のいない文科に用はない」と法科に移り,「夏目なんて,あんなもん問題になりゃしない」と毒づいた.

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原題: 小泉八雲

著者: 小泉八雲

ISBN: 4101094012

© 1975 新潮社