▼『テレーズ・デスケイルゥ』フランソワ・モーリヤック

テレーズ・デスケイルウ (新潮文庫 モ 3-1)

 ボルドの荒涼たる松林を吹きぬける烈風にそそのかされたように,なぜ,と問われても答えられぬ不思議な情熱に誘われて,テレーズは夫を殺して自由を得ようとするが果たせず,しかも夫には別離の願いを退けられる・・・情念の世界に生き,孤独と虚無の中で枯れはててゆく女テレーズを,独特の精緻な文体で描き,無神の世界に生きる人の心を襲う底知れぬ不安を宗教的視野で描く名作――.

 が伴侶である夫を殺害する動機には,「情夫との生活の妨げ」というものが多くの文学で設定されてきた.旧くは『今昔物語』巻29-13,江戸川乱歩『白髪鬼』がある.テレーズ・デスケイルゥの夫ベルナールは,27歳になろうとしていた.産後,テレーズはベルナールのことが癇に障ってしかたがない.もっとも,ベルナールは妻に暴力を振るうわけでも,酒に溺れるわけでもない.さしたる喧嘩もない.しかし,その一挙手一投足がテレーズには許しがたいものに見えてくる.

 いつものように並んでベッドに入っていた晩,寝言を呟きながらベルナールがテレーズにもたれかかってきた.その熱い体温に嫌悪を感じた彼女は,夫の身体を向こうへ押しやった.しかし,また彼はもたれてくる.苛立ったテレーズは思う.このまま,追い払った夫が戻ってこなければよいのに.闇の向こうから,もうこちらには来なければいい――夫の声,趣味,体型,すべてが忌まわしく思えてきた.病気治療のため,砒素剤を常用していたベルナールに,飲ませる砒素剤の量を増やしていき毒殺を謀る.そんな計画が,テレーズの内部で具体性をもって膨れ上がっていく.

 しかし殺害に失敗したテレーズは,家の体面を重んじる夫の偽証によって免訴となった.人間ではなく,舞台の登場人物として扱われることへの不満,それは自由の障害物としての男性観を生み強めた.家名を守るためベルナールはテレーズの殺意を否認する.つまり,男の体面と家の名誉の前には,一女性の意思を崩すのはたやすいとテレーズは思い知らされる.フランソワ・モーリヤック(François Mauriac)の好んで描いたボルドー地方には,荒涼たる松林が豊かに茂る.夜のアルジュールの松林のうめきが,本書では殺意を形成する心の動きに多大な意味を与えた描写がある.

 「神なき人間の悲惨」を描いたと解釈される本作で,モーリヤックはテレーズに財力や格式に屈服させられた「性格」を与えた.誰もがテレーズの悪徳に共感すべき部分をもっている.カトリシズムを抱えるモーリヤックは,テレーズの晩年を『夜の終わり』で取り上げた.テレーズは,モーリヤックの内部に生き続けることに疲れ,「死にたい」としばしば訴えかけてきたという.創造者モーリヤックはそれを許さず,女性であるための隘路を自ら選んだ女性に相応の末路を歩ませた.何ものにも踊らされたくないと求めたテレーズに対し,絶対者の視点からの贖いを行使したのである.

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Title: THÉRÉSE DESQUEYROUX

Author: François Mauriac

ISBN: 9784102050019

© 1972 新潮社