▼『給食の歴史』藤原辰史

給食の歴史 (岩波新書)

 小中学校で毎日のように口にしてきた給食.楽しかったという人も,苦痛の時間だったという人もいるはず.子どもの味覚に対する権力行使の側面と,未来へ命をつなぎ新しい教育を模索する側面.給食は,明暗二面が交錯する「舞台」である.貧困,災害,運動,教育,世界という五つの視角から知られざる歴史に迫り,今後の可能性を探る――.

 本の「給食」の起源は,1889年に山形県鶴岡町の私立小学校で行われた給食が発端とされる.1919年には東京府が初めて自治体としてパンによる給食を導入し,1932年には文部省の指令により国庫補助による給食が始まった.この給食の必要性を提唱したのが,"栄養学の父"と称される佐伯矩であり,特に全児童で一緒に食べることを提唱したことは見逃せない.この工夫は,給食制度の基盤にある貧困の恥辱(スティグマ)を回避し,貧困を隠すための設計として位置づけるものだった.佐伯は,給食はすべての児童に提供するべきと国に提言した.その後,佐伯の弟子である原徹一が岐阜・東濃の川上村の学校で給食を実践し,大正時代には栄養を考慮したみそ汁の全児童への無償提供が開始された.

食は,あらゆる学びの基本でもある.食材を育て,料理し,配分し,食べ,片付ける,という給食のあらゆるプロセスで,具体性をもって身につくかもしれない.もっといえば,日本の20世紀史を規定する水銀汚染も放射能汚染も給食から学べる.人間が生きものの連鎖のうちにしかその生を維持できないことは,給食が教えてくれる.地域の農業・漁業も給食の食材として学べば,知は紙上を滑るだけのものから,実地に根を張ったものになるだろう

 戦後,占領期にはGHQ指導の下,治安維持とアメリカの余剰生産物の消費を背負う形で日本の児童に給食が提供されることとなった.教師と生徒が一緒に給食を食べる慣習は,敗戦後の教育制度の一環として位置付けられ,米飯給食が導入されるまでにはアメリカとの交渉に多くの時間がかかった.高度成長期の日本においても,僻地では「欠食児童」と呼ばれる子供たちが弁当を持参できない状況であることが明らかにされ,新聞記者や教育関係者,地域の住民たちが声を上げ,給食の充実を実現させる運動が行われた.また,センター反対運動を起こした東京都の教師や,食器の問題に着目した個人なども,給食制度の改善に向けて努力を重ねている.

 近代的な給食制度は,貧しい子供たちにも教育の機会を提供する目的から出発し,関東大震災の被災者への支援としての給食,そして戦時中の体力向上を目指す給食へと展開していく.現在の給食制度は,1954年に成立した学校給食法に基づいて運営されている.税金によって調理施設費や人件費が賄われつつ,食材費は保護者の負担と定められている.これは政治的な妥協の結果であった.1951年,当時の池田勇人蔵相ら自民党内に「給食は社会主義だ」との議論が巻き起こり,給食は存続の危機に瀕した.しかし,PTAによる打ち切り反対デモなどが起こり,給食は守られることとなる.1953年には風水害や冷害が多発し,給食のない地域での欠食児童問題が社会的な問題となり,給食の重要性が再認識され,法制化の動きが進んだ.

公共部門の民営化と緊縮財政を掲げるサッチャーレーガンも,給食への公的支出を節約したために,その劣化をもたらした.日本もその路線を引き継ぎ,厳しい合理化を推し進めているが,給食がハンバーガーとポテトフライとか,ケチャップを野菜と認めるとか,そういうレベルには陥っていない.その理由は何だろうか.日本の食文化の豊かさだろうか.あるいは,日本人の味覚が鋭いからだろうか.日本人が食道楽だからだろうか.それとも,日本の教育が強制的なものに馴染んでいるからだろうか

 1970年代以降は新自由主義的な合理化路線が強まり,調理場のセンター方式化や民間委託が進行し,反対運動も拡大した.給食の歴史は同時に住民運動史でもあり,日本全国のさまざまな地域で,市民や給食関連の職員たちの積極的な行動によって給食の価値が守られてきた.本書では,現代においても「欠食児童」の存在は否定できず,給食は彼らにとって重要な栄養源であることが報告されている.食事は子供たちの生命を支える大切な要素であり,給食制度はその重要性を示すものと理解される.食べることは人々に幸福をもたらす一方で,争いの原因ともなる.給食の歴史はそのような時代の権力闘争を反映し,国庫予算や政治的な動向と結びついてきたことを指摘し,給食が子供たちの健全な成長を支える権利であることを強調している.

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原題: 給食の歴史

著者: 藤原辰史

ISBN: 978-4-00-431748-7

© 2018 岩波書店