「およそ文学における最高傑作の一つと言っても過言ではない」とボルヘスに激賞され,オースターが『幽霊たち』を書く際に依拠したとされるホーソーン著『ウェイクフィールド』.ストーリーも時代設定も同じながら,新たな光をあてラテンアメリカ,欧米諸国で絶賛されたベルティ著『ウェイクフィールドの妻』.不可解な心理と存在の不確かさに迫る文豪と鬼才のマスターピース二篇――. |
陰鬱なピューリタン文学の傑作『緋文字』を発表する15年前,1835年にナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)はこの15ページ余りの短編を世に出した.その特異性は,忘れがたい読後感を残す.ウェイクフィールドと名づけられた男はある日,旅行に出ると妻に言い残し,自宅からほど近い借家に移り住む.さしたる理由もなく,20年間経過してから,ひょっこり家へ戻る.それまで,ウェイクフィールドは妻の生活を覗き見る生活を送っていた.これだけの話である.本書の冒頭には「思考にはつねにそれなりの効力があり,印象的な出来事にはつねに教訓がある」と述べられている.
人間の内部にある怪しさ,不条理は,ウェイクフィールドの異常行動の根拠をまったく示さないことで,文学的に守られる.彼の行動そのものが,物語におけるキーパーツ,マクガフィンなのである.アルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)は,マクガフィンと位置づける小道具に,必ずしも意味をもたせる必要はないと考えていた.物語を動かす「鍵」になりさえすれば,謎のままでよいとしたのである.文学においても,重要な人物の行動パターンは,物語に波紋を投げかける.思考の根拠を提示しなければ,物語としては破綻することが多い.
行動自体が不明瞭な人物は,奇異な存在として扱われ,常識的な人物やスト-リーテラーによって修正され,解釈される.ウェイクフィールドは,何のつもりで,20年ぶりの夫婦生活を再開させたのか.妻は,いかなる心境で夫を迎えたのか.それらの説明の一切は廃されて幕を閉じる.驚くべきは,この異様な物語は事実に基づくということである.ロンドンで起きた風変わりな出来事を,ホーソーンはこの小説の原案としたという.また,ウィリアム・キング(William King)『政治的文学逸話』(1818年)にも同様のプロットがある.
この神秘なる世界の,見かけの混乱のなかにあって,人間一人ひとりは一個の体系にきわめて精緻に組み込まれ,体系同士もたがいに,さらに大いなる全体に組み込まれている.それゆえ,一瞬少しでも脇にそれるなら,人は自分の居場所を永久に失うという,恐るべき危険にさらされている.ウェイクフィールドのように,いわば「宇宙の追放者 The Outcast of the Universe 」になってしまうかもしれない
人が結び付けられるものは,夫婦や家族の絆であるのか,宗教や地域への信頼であるのか,そのいずれにもホーソーンは懐疑の眼差しを向けている.エドゥアルド・ベルティ(Eduardo Berti)による「ウェイクフィールドの妻」は,エリザベス・ウェイクフィールドと名付けられた妻が,使用人との関係や時代背景をもとに,妻の側から説明的に書き込んだ別視点の小説であり,ホーソーンの原作の翻案である.これにより,原作の意図をもった空白が埋められ,陳腐化してしまった.マクガフィンを破壊すれば,文学作品の宇宙は歪むのである.
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Title: WAKEFIELD, LA MUJER DE WAKEFIELD
Author: Nathaniel Hawthorne, Eduardo Berti
ISBN: 410544901X
© 2004 新潮社