▼『蚕と戦争と日本語』小川誉子美

蚕と戦争と日本語

 欧米の日本語学習は対日戦略とともに展開した.そのうち,国防,外交,交易など各国の国益と結びついた8つのトピックを紹介する.幕末の日本産「蚕」や日露戦争後の日本に注がれた関心が日本語の研究を促すなど,動機は意外なところにあった.16世紀から20世紀の西洋人の日本語学習は,綿密な計画とたゆまぬ努力,日本語教師たちの真摯な協力によって成果を生んだ――.

 治維新後,岩倉使節団が訪欧した際,岩倉具視らはフランス政府関係者より「私たちがいま絹の服を着れるのは日本のおかげです」と感謝されたという.欧米社会における日本の近代化は,帝国主義の脅威的認識に連結するものでもあった.16世紀から20世紀にかけての西洋人の日本語学習の歴史には,緻密な計画と不断の努力,そして日本語教師たちの熱意が結実していた.オランダ王室通訳官ヨハン・ホフマン(Johann Joseph Hoffmann)は,1803年に上垣守国『養蚕秘録』を翻訳した.この翻訳は,日本での出版から半世紀以上が経過した後もなお価値のあるものと見なされた.宣教師たちは日本語を学び,西洋から日本に持ち込む価値のある知識と技術を得るために努力したのである.

外国語の学習と言えば,現代は友好的で平和的なイメージをまとうことが多い.ところが,歴史を紐解くと,対立や征服,戦争といった国家間の交渉や紛争と連動して行われた例が多々見られる

 最初に翻訳されて世界に紹介された日本の書物は養蚕に関するものであり,これが日本語学習のきっかけとなった.本書は,日本語学習が国防,外交,交易など各国の国益に結びついた8つのトピックを紹介しており,大航海時代から第二次世界大戦までの期間において,どのように日本語が学ばれたかを詳細に記述している.特に「蚕」というタイトルは,19世紀末から20世紀初めにおける日本の絹産業の輸入とそれに伴う日本語学習の拡大を象徴している.絹はヨーロッパの王族や貴族にとって重要な素材であり,しかし,絹を生産するための蚕が微粒子病にかかり死滅する危機が発生した.この問題に対処するため,日本の養蚕技術を学び,日本の養蚕書を翻訳しようとする試みが行われたのであった.

十九世紀中頃にヨーロッパでは当時不治の病と言われた蚕の伝染病,微粒子病が蔓延し,ヨーロッパ種は絶滅の危機にさらされていた.その打開策として,日本の養蚕業が注目され,技術翻訳書第一号とも言うべき日本の養蚕教育書がフランス語やイタリア語に翻訳された.ヨーロッパの人々は,日本の養蚕書で得た知識をもとに,日本の伝統的な方法で日本産蚕を育て,養蚕業の危機を救ったのである

 日本と西洋の文化交流の一環として,日本側はポルトガル語オランダ語,英語など,西洋の外国語を学んだ一方,西洋側は交易,外交交渉,戦争において自国に有利な情報を得るために日本語専門家を育成した.来日した宣教師たちは日本語を「はなはだ困難で迷宮のような言葉」と認識したが,彼らは必死で学び,結果として日本の支配階級とも日本語でコミュニケーションをとるレベルに達した.幕末の日本で生産された絹や日露戦争後の日本への関心が,日本語研究を促進し,ロシアでは18世紀には江戸時代の日本から漂着した人々が日本語を教え,日本語学校が設立された.これにより,ロシアでの日本語教育が約110年間にわたって続けられた.20世紀初頭,世界は帝国主義の時代を迎え,日本は国際的な影響力を拡大した.

アメリカ海軍日本語学校で学んだエドワード・サイデンステッカーやドナルド・キーンは,翻訳を通じて日本文学の評価を国際的に高め,特にサイデンステッカーは,川端文学を翻訳し,彼のノーベル賞受賞への道を開いたと言われている

 日本語学習は,日本が国際的な舞台で重要な役割を果たすようになり,さらに日本語への関心が高まる.これには,日本の対外宣伝や国際的な関係強化の取り組みも影響している.米国務省の外務職員局(FSI)の言語別の難易度分類によると,日本語は最も難度の高い「カテゴリー IV」(2,200時間)に位置づけられている.欧米の対日観が変化し,日本研究と日本語学習において新たな展望が開かれた.イギリスでは日英同盟締結後,日本語講座の設立や日本語学校の開校,日本語教科書の出版が相次いだ.日本語教育の歴史を通じて,言語を通じた文化交流が日本と西洋との関係にどれほど影響を与えたかを理解することができる.

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原題: 蚕と戦争と日本語―欧米の日本理解はこうして始まった

著者: 小川誉子美

ISBN: 978-4-8234-1031-4

© 2020 ひつじ書房