▼『生物から見た世界』ヤーコプ・フォン・ユクスキュル,ゲオルグ・クリサート

生物から見た世界 (岩波文庫)

 甲虫の羽音とチョウの舞う,花咲く野原へ出かけよう.生物たちが独自の知覚と行動でつくりだす"環世界"の多様さ.この本は動物の感覚から知覚へ,行動への作用を探り,生き物の世界像を知る旅にいざなう.行動は刺激に対する物理反応ではなく,環世界あってのものだと唱えた最初の人ユクスキュルの,今なお新鮮な科学の古典――.

 物学の古典的名著.生物特有の「知覚世界」を,ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(Jakob Johann von Uexküll)は"Umwelt"と説明し,日高敏隆はこれを「環世界」と訳した.ここで「環境」としたのでは,独自の知覚と行動の機微が隠れてしまうからである.ユクスキュルは,環境が生物の振る舞いを規定する視点ではなく,生物が環境を認識する範囲を見る.それが,動物主体と客体との意味を持った相互関係(自然の「生命計画」)ということであった.

 酪酸のにおいと温血動物の体温だけが世界の法則であると,マダニのメスは本能的に知覚する.視覚・聴覚が存在しない代わり,嗅覚,触覚,温度感覚のセンサーは研ぎ澄まされ,長期の絶食期間――18年間という記録がある――に耐え,マダニは温血動物を待ち伏せることができる.観測者に対して運動する座標系での時間の感じられ方,ある事柄の発生する時間的間隔,異なる場所における同時性,同じ事象を異なる座標系から観測したときの時刻の関係を,人間は時空の生成ととらえる.

われわれはともすれば,人間以外の主体とその環世界の事物との関係が,われわれ人間と人間世界の事物とを結びつけている関係と同じ空間,同じ時間に生じるという幻想にとらわれがちである.この幻想は,世界は一つしかなく,そこにはあらゆる生物がつめこまれている,という信念によって培われている

 人間にとって一瞬の時間は,物理学的には「セシウム原子から放出される電磁波の91億9,263万1,770回の振動」の18分の1の時間となる.しかし,4分の1秒をカタツムリには「一瞬」と感じられない.流れる時間に生物横断的な普遍性などはなく,固有の「環世界」が実在している.その神秘の生命計画が,興味深く述べられる.同じ人間種の間でも,人里離れた塔の上で遥かな惑星を観察する天文学者にとっての環世界は,一般市民には及びもつかない宇宙空間に限りなく接近している.また,楽器の発する空気振動について,音波研究者と音楽研究者にとっては「波」と「音」のとらえ方で,それぞれ環世界は別個のものとなる.

生理学者にとってはどんな生物も自分の人間世界にある客体である.生理学者は,技術者が自分の知らない機械を調べるように,生物の諸器官とそれらの共同作用を研究する.それにたいして生物学者は,いかなる生物もそれ自身が中心をなす独自の世界に生きる一つの主体である,という観点から説明を試みる.したがって生物は,機械にではなく機械をあやつる機械操作係にたとえるほかないのである

 同様に,たとえば国民生活というものを,政治学者,経済学者,医学者,法学者はそれぞれのとらえ方で分析を加えることだろう.つまり環世界とは,すでに中世スコラ学者やドイツ観念論哲学者が論じていたように,対象認識は一意で決定されるものではなく,排他的な選好によって決まることの理解に結び付く.本書では動物世界を題材に,壮大な思想が育まれている.ゲオルグ・クリサート(Georg Kriszat)の緻密な挿絵も,素晴らしい効果をあげている.

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Title: STREIFZUGE DURCH DIE UMWELTEN VON TIEREN UND MENSCHEN

Author: Georg Kriszat, Jakob Johann von Uexküll

ISBN: 4003394313

© 2005 岩波書店