▼『裁かれた命』堀川惠子

裁かれた命 死刑囚から届いた手紙

 一九六六年(昭和四一年),東京・国分寺市で一人の主婦が被害者となった強盗殺人事件が発生した.四日後に逮捕された二二歳の犯人・長谷川武は,裁判でさしたる弁明もせず,半年後に死刑判決をうけ,五年後には刑が執行された.その長谷川死刑囚が,独房から関係者に送っていた手紙が残されていた.とくに事件の捜査検事だった土本武司は,当時,手紙に激しく心を揺さぶられ恩赦へと動き出そうとしたほどだった.人が人を裁くことの意味を問う,注目のノンフィクション――.

 盗殺人,強盗等の事件で死刑判決――一審判決昭和41年11月28日最高裁確定――.当時22歳の長谷川武に死刑求刑した土本武司(元最高検察庁検事)は,彼のことを記憶していた.供述調書の取調べに素直に応じ,裁判で弁明らしい弁明をすることなく,死刑判決を悄然として受けた姿の青年であった.長谷川は,国分寺市で強盗に入った家の主婦の胸部,頸部を短刀でめった刺しにして殺害した「強盗殺人」のほか強盗,窃盗,強盗など合計4件の犯罪を起こしていた.死刑確定後,土本の元に一通の手紙が届けられた.収監された独房で死刑執行を待つ長谷川の改悛と悔悟が清廉な文章で綴られていた.手紙は死刑求刑した検事に対する怨嗟や憤りは一切なく,「厳しい取り調べの中でたった一人,高圧的でない態度で接してくれた優しい目をした検事さん」と書かれていた.

ぼくがもし生れ変る事が出来,職業を選べと言われたら,絶対,検事さんの様な“職”には進まない積リです.何故なら,現在の検事さんの心情が身にしみてよく分かるからです.ではどんな職業に付くかと言われたら,これは簡単です.ぼくは自分が今までやって来た仕事をもう一度やってみたいのです.ぼくが歩んで来た道をもう一度やってみたいのです.ぼくが歩んで来た道をもう一度,踏み返し,何処でどう間違ったのか,納得のいく所まで自分自身,見極めたいのです

 長谷川は,そのような感謝の手紙を二審で彼を弁護した国選弁護人小林健治にも送っていた.合計57通の手紙を通じて,死刑に処されるまで「残された日々」の期間に人間的成長を遂げていることが窺われるほど,誠実さを感じさせる文章に土本と小林は驚き,長谷川に対する判決の妥当性を再考せざるを得なかった.土本は,判決確定後に上司に対し,「恩赦」の可能性の相談までしたのである.個別の事件に量刑を決定した司法判断に介入する恩赦は,憲法に定める国民主権に反する可能性があり,行政府により司法判断を修正する危険性ももつ.死刑囚として服役態度はきわめて模範的,自律的であった長谷川に対する恩赦は実現しなかったが,本書は,限られた期間と資料で尋問調書を作成,被告の自供,自白をもとに判断される刑事裁判のあり方に疑義を呈する点に意義がある.

 前科もなく,質素ながら板金塗装職人としては勤勉,有能であった長谷川が,なぜ強盗殺人まで行い主婦を惨殺したのか,長谷川の家族関係を追跡調査すると,明らかになったのは極貧,浪費癖,歪な親子関係であった.1960年代には,被告人の心情に対する審理,被告人の生い立ちについての同情の余地と更生可能性に対する司法の裁量は乏しかった.著者は,1968年に4人を殺害した連続射殺犯永山則夫についての精神鑑定をめぐる司法と精神医療の対立についても優れたルポルタージュを発表している( 『永山則夫―封印された鑑定記録』2013年,岩波書店).本書の強盗殺人犯長谷川武の一審では,彼の生い立ちについてほとんど顧みられることはなかった.死刑判決から5年後,長谷川には死刑が執行された.

彼ら(一審,二審,最高裁と審理を重ねた11人の裁判官たち)の誰一人として,被告人の心の奥底に潜んだ思いに触れることはなかった.『厳正』な法廷でいくつもの審理を経て,『極めて凶悪で更生は不可能』と死刑判決は導かれた.そして,死刑は執行された.しかし,司法の場で裁判官たちが練り上げた判決文の中にある長谷川像と,取材を通して現れてきた長谷川武の姿は異なるものだった.獄中で綴られた57通の手紙に見えてきた姿とも,遠くかけ離れていた

 当時の東京拘置所では死刑囚に限り,希望すればジュウシマツや文鳥など小鳥を飼育することが許可されていた.長谷川は"与太郎"と名づけた文鳥を飼い,大変に可愛がっていた.その様子が手紙には何度も登場し,殺人犯が改心し真心を取り戻したかのように読め,本書でも共感的なトーンで述べられているが,それは印象操作とみなされうる危惧も看過されない.被害者遺族の心情に配慮し,遺族への取材を回避したことで,本書は長谷川死刑囚と彼の罪を裁いた司法関係者の内面的苦悩が焦点化されており,遺族側の葛藤や苦しみは埒外に置かれている.長谷川は,検事や弁護士に悔恨の手紙を送ったように,遺族にも手紙を送っていたのではないだろうか.非常にセンシティブな事情であるが,そのことを把握・分析する努力を放棄したジャーナリズムは,一方の立場に与する温情的なバイアスを容認し発信することになる自覚こそが必要である.

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原題: 裁かれた命―死刑囚から届いた手紙

著者: 堀川惠子

ISBN: 978-4-06-216836-6

© 2011 講談社