▼『変体少女文字の研究』山根一眞

変体少女文字の研究 (講談社文庫)

 この文字を知ることは,新人類を知ることだ.21世紀は弱々しく幼稚な社会となるのか?長期間の執拗な取材で,ついにその謎を判明させた渾身のノンフィクション!マンガ文字,丸文字とも呼ばれている〈変体少女文字〉は,昭和53年頃から猛烈に普及しはじめた.この文字に象徴される新しい文化は,弱々しく幼稚な社会を到来させる芽をはらんでいる.角ばった楷書型の男文化が後退し,21世紀の日本人は,誰もが「かわいい」価値観をもち,この文字を書く可能性がある――.

 字,マンガ字,猫字など統一感を欠いた名称で呼ばれていた文字群を,本書は「変体少女文字」と名づけた.少女のみに見られる特有の文字であることから,命名に「少女」を冠し,文字文化の新時代を象徴する,いわば現代文字としてのアウトサイダーである.楷書体が男性に通用する文字だったことを反映して,平仮名は,女性がその原型を作り出した.当初はこの文字は「をんなで」「をんなもじ」とも呼ばれていた.1980年代の少女たちに通用する文字を著者が「アウトサイダー」と位置づけたことには,古語からみた日本語成立と,現代の亜流となって生まれてきた「変体」的な文字には,一定の道筋が共通しているであろうという分析があらわれている.

 現在では,1つの平仮名に対してあてられる音は1つが原則――「あ」はA,「つ」はTSU,「を」はWO――だが,1900年(明治33年)以前には,1つの音に複数の漢字があてられ,それに対応してかなりの数が重複する平仮名が生まれていた.当時の仮名は,約50の音に対して300文字ほどが存在していたのである.

 それを整理統一したのが,明治33年「文部省令第十四号・小学校令施行規則・第一号表」だった.この時,1つの音から外された字母,それが「変体仮名」となって宿主を失ったまま,文字界の表舞台から姿を消した.だが,彼らは完全に消滅したわけではなかった.姿を変えて再び注目される時を待っていた.文字は,人々の共通のコミュニケーション手段であり,そこには「客観的」に多数の合意として意味が読み取られなければならない.1970年代後半から広がってきたと思われた少女文字には,この客観性がなかった.この文字とその使い手は,当時から大人たちには到底受け入れられない異端とされ,白眼視されてきた.

 線は細く,丸みが一様に認められ,極度の幼稚性の印象を受ける文字.それに眉をひそめる大人たちは多いが,その観測を試みたものは誰もいなかった.着眼することさえなかったといえよう.そこで著者がとったのは,取材という定性分析に統計的な分析を加えた,定量分析というものだった.全国の中学・高校66校から3,021人のサンプルを得てみると,地域的な偏りなく全国に変体少女文字を常用している学生がいることが推測できた.その書き手は,1980年半ばには500万人に上ることが予測された.

 少女たちの使用する文字は,装いにほかならない,と本書では考察されている.きちんとした字を書くことを放棄することで,規範からの逸脱を同士間で共有しているのではあるまいか,という主張である.変体少女文字を,女子学生らが時と場合に応じて使い分けていることを突き止めたことには,1つの根拠がある.ただし,変体少女文字を書く者の18.4%が「楷書との書き分けができる」と応えた全国調査の結果を「少女たちの処世術のあらわれ」と解釈するには抵抗がある.20%に満たない数字は,判断の指針としてはきわめて弱いということも視野に入れておかなければならないだろう.

 意思疎通に化粧を施す行動があるならば,それを概念的にとらえる実験を行ったというのが,本書の意欲的な点だった.この変体少女文字に見られる文字的装飾行動を,著者は「コミュニケーション・コスメティックス」と呼んだ.変体少女文字は「かわいい」.愛らしく,無害なものに自己を同一化しようとする意図は,収集や没頭の理由の動機にこの「かわいい」が筆頭となることからもうかがえる.今日でも,「かわいい」という威勢は向かうところ敵なしといった観がある.

 女性の精神構造に占める「かわいい」を解き明かさねば,変体少女文字の時代の庶子を分析したことにはならないのである.けれど,綿密な調査に対して,本書の「かわいい」の基本構造分析はきわめて弱い.これを骨格として変体少女文字を論じることはできていない.結論部がファジーな構成にもかかわらず,本書が驚きをもって世に迎えられたのは,当時としては研究対象が斬新だったことに加え,それまでのノンフィクションが大きな事件の暗部を白日の下に曝す,という手法をとることが一般的だったのに対し,本書が些細な事実から社会の断面を切り取ってみせたことにある.少女たちが丸文字を書こうが楷書を書こうが,本来,誰にとってもどうでもよいことだったはずだ.

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原題: 変体少女文字の研究

著者: 山根一眞

ISBN: 4061844474

© 1989 講談社