▼『偉大な記憶力の物語』A.R.ルリヤ

偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活 (岩波現代文庫)

 人並みはずれた鮮明な直観像と,特有の共感覚をもつその男は,忘却を知らなかった.電話番号を舌で感じ,コトバの音から対象の意味を理解する.想像によって手の温度を変える.直観像を利用して課題を鮮やかに解決する一方で,抽象的な文や詩の理解はひどく困難.特異に発達した記憶力は,男の内面世界や他者との関わりに何をもたらしたのか――.

 大な記憶力についての研究は,心理的諸過程や人格的傾向,高次精神機能の考証がなされてきた分野である.1920年ラトビア出身のユダヤ人“シィー”は,モスクワの若き心理学者アレクサンドル・ロマノヴィッチ・ルリヤ(A. R. Lurii︠a︡)を訪れた.「自分の記憶力を調べてほしい」というシィーに,ルリヤは各種の記憶力テストを課した.13字×4行の数列を3分で憶え,直観像に基づき,共感覚を備えていたシィーは,無限の記憶容量をもっていたことが明らかになる.

明らかになったことは,シィーの記憶力は,たんに記憶できる量だけでなく,記憶の痕跡を把持する力も,はっきりした限界というものをもっていないということであった.いろいろな実験で,数週間前,数ヵ月前,一年前,あるいは何年も前に提示したどんなに長い系列の語でも,彼はうまく——しかも特に目立った困難さもなく,再生できることが示されたのである

 ルリヤは30年間にわたりシィーの記憶過程,認識過程,人格発達の探求を続ける.記憶検査から十数年後,唐突に記憶の想起を求めると,シィーは正しく想起した.短いスパンで保有されるだけではなく,忘却を生じさせないという驚異的な記憶力の持ち主であったのである.その共感覚は,音・文字・数字などから味覚や色,質感を感じ取ることから,永久記憶に留められる.実験から判明する事実とその考察は,エキサイティングといえるものだった.興味深いのは,ハンニバル・レクターの“記憶の宮殿”のような直観像に,共感覚が混在することで,シィーの驚異的記憶力は「記銘」の手続き(プロトコール)を踏んでいたと思われる点である.

 ルリヤはシィーを「この世の誰よりも想像力が著しく発達した人間」と評している.古代ヘブライ語を聞くと言葉が水蒸気の雲に見え,数字に「自負心のある,背のすらりとした人」(「1」),「愉快な婦人」(「2」),「陰気な人」(「3」)と別個のイメージが彷彿とされ,記憶の再生に論理性が要件となっていない.たとえばイディッシュ語の「薪」には<明るい光>が感覚としてシィーの内部に起き,「豚」という語には<繊細でエレガントなもの>が知覚される.これらの作用によって,シィーは抽象的な文や詩の理解に著しい困難を示した.アスペルガー症候群サヴァン症候群とも説明がつかない人間の超越的能力は,どこに到達したのであるか.それは人格的特質の問題として,本書の後半で述べられる.

非常に秀でた記憶力が,人間の人格のすべての基本的な側面——思考,想像,行動——にどのような影響を与えるのか,もし,人間の心理生活の一つの側面である記憶力が異常に発達し,その人の心理活動の他の側面のすべてに変化を及ぼしはじめたとしたならば,その人間の内面的世界,他の人々とのコミュニケーション,生活の仕方が,どのように変化しうるのであろうか,という問題

 ルリヤと出会った当初,シィーは新聞記者であった.上司の指示,取材による情報,それらをまったくメモも取らずに記者を務めることができていたという.しかし特異な「症候群」により,職を転々とし,記憶術者として医療に携わったこともある.一方,愛すべき妻や息子に対しては,彼は現実的感覚を欠いたまま接することとなった.人生の後半には,膨大に蓄積された「記憶」が心的混乱をもたらすようになり,苦悩の中に生きた.それは,高次精神機能の発生と発達の科学理論の範疇外というべき悲劇的問題であった.

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Title: Маленькая книжка обольшой памяти

Author: A. R. Lurii︠a︡

ISBN: 9784006002428

© 2010 岩波書店