▼『大地』パール・バック

大地(一) (新潮文庫)

 19世紀後半から20世紀初頭にかけて古い中国が新しい国家へ生まれ変わろうとする激動の時代に,大地に生きた王家三代の年代記.貧しく,わずかばかりの土地を大地主の黄家から借りて耕す王龍は,黄家の奴隷の阿蘭を嫁にもらうことになった.働き者の阿蘭を得たことがきっかけとなって王龍の運が上向き,子宝にも恵まれて多くの土地を手に入れ,ついには黄家の土地をも買収してしまう――.

 ール・バック(Pearl S. Buck)の愛娘は,フェニルケトン尿症後遺症による重い知的障害とともに生きた.宣教師の父とアメリカから中国へ渡った少女時代のバックは,アメリカのランドルフ・メイコン女子大学に入学するまで中国大陸を踏み締めていた.アングロ・サクソン「責務論」(Manifest Destiny)での宣教師とその家族という立場であったが,少なからぬ中国人からは敵性外国人と看做され,一家は並々ならぬ襲撃を受けたこともある.「いつまでたっても大人にならない子供」と作品の中で名づけられた知的障害の女児には,固有名詞すら与えられていないが,物語に占める存在意義は大きい.少女時代のバックではなく,わが娘と状況を共有する女児が登場してきた理由とは何だったのか.

 朝の煎茶を父に差し出すことも自重せねばならない貧農王龍の刻苦勉励,時勢をみる才覚をもった息子たちは,放蕩家,商人,軍閥と各自の資質を生かす道を切り開く.厳格な家父長制による強圧のもと,旧来の価値観が西欧の自由主義及び,革命思想への傾斜が顕著となる時代へと変転する.その符牒として機能するのが王一族であり,血族の連帯を「土」に託す漢民族の性情にも繋がっている.一代で財を成した王龍の遺言は,所有地を手放してはならないというものだった.人間は結局,土から与えられ土に還るもの――王龍の哲学を息子たちは意に介さない.土地に縛られることを厭う新生の価値観が,動乱期の中国には育っていた.

 バックが暮らした安徽省北部,また金陵大学農学院教授ジョン・ロッシング・バック(John Lossing Buck)との結婚生活の舞台,国民政府の首都南京での体験は,国民革命の成立から南京国民政府の樹立,中ソ紛争から満州事変へ至る軍事的緊張の中での国民の生活を観察する冷静な分析眼となって育まれた.バックの創作は,重要なものは1930年代に集中している.1940年代以降の著作も多いが,東西の理解と女権拡張の社会活動が彼女の経歴の中で存在感を高めている.知的障害を抱える王龍の娘は,家族の庇護の下で52歳まで生きた.本書における「土の家」で寿命を全うできた“白痴”の娘は,心優しい奴隷娘や血縁者の努力で保護された.それに対し,バックの娘は,中国で9年間母親の手で育てられた後,ニュージャージーの養護施設に入所させられている.

 王一族の男性が離散し,土に触れる必要もなくなるのに対し,女性は家から離れることはできず,小さくなった土地をひっそりと守り続けた.土地から切り離され,回帰することもない人々の心から,連帯は姿を消すのである.何世代にもわたる家族員の生産が可能であれば,相互扶助の仕組みで介護のケアも可能であったかもしれない.本書を通じて,バックの苦い悔恨が伝わる部分である.金銭に執着し,権力を掌握し,自由を求め欧米に亡命する子孫を王一族は生んだ.彼らを支える女性のありようは様々で,忍従や依存を強いられる姿も数多い.それも中国の土着的な精神を累々と伝える栄枯盛衰の一側面といえるが,高い自立精神の持ち主で,医学徒美齢が王淵に寄り添う終章,若い二人の希望に,一つの安らぎが横たわる.おそらくそれは,絆で結ばれた未来の家族をもち得る可能性から兆している.

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Title: THE HOUSE OF EARTH

Author: Pearl S. Buck

ISBN: 9784102099018, 9784102099025, 9784102099032, 9784102099049

© 1996 新潮社