▼『荻窪風土記』井伏鱒二

荻窪風土記 (新潮文庫)

 関東大震災前には,品川の岸壁を離れる汽船の汽笛がはっきり聞えたと言われ,近年までクヌギ林や麦畑が残っていた武蔵野は荻窪の地に移り住んで五十有余年.満州事変,二・二六事件,太平洋戦争‥‥時世の大きなうねりの中に,荻窪の風土と市井の変遷を捉え,親交を結んだ土地っ子や隣人,文学青年窶(やつ)れした知友たちの人生を軽妙な筆で描き出す.名匠が半生の思いをこめた自伝的長編――.

 伏鱒二も気の毒な人だった.中学生の頃より絵が好きで,日本画で身を立てようと奈良・京都で描いた写生を携えて橋本関雪に入門を申し込んだが,ボツ.ならばと早稲田の仏文予科に進むも,片上伸教授からの同性愛セクハラに苦しめられ,休学.復学して文学を学び直すことも,この破廉恥教授の妨害で中退を余儀なくされ,さらに同年,心を許した無二の親友青木南八が世を去った.

 荻窪の地に移り住んで50有余年.満州事変,二・二六事件関東大震災,太平洋戦争――その局面にあって,親交のあった作家たちとの語らい,趣味の釣りや愛猫との穏やかな生活は,井伏の最晩年まで続いた「荻窪周辺」のことだった.

 井伏の代表作をあらかた読むと,謹厳な作家,という印象が強い.その飄々としたスタイルは,常に冷めた眼ですべてを眺めていた.井伏に心酔した太宰治が自殺したときは,太宰が友人を寄宿させていれば,「自棄っぱちの女に水中に引きずり込まれるようなことはなかったはずだ」と言い,開高健が時代に刺激が足りなくて創作意欲が沸かないと嘆けば,「ただ書けばいんだよ」とシンプルに諭す.如是,本書はユーモラスで味のある哀感が篭められた筆致の随筆.

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原題: 荻窪風土記

著者: 井伏鱒二

ISBN: 4101034087

© 1987 新潮社