▼『そして殺人者は野に放たれる』日垣隆

そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)

 「心神喪失」の名の下で,あの殺人者が戻ってくる!「テレビがうるさい」と二世帯五人を惨殺した学生や,お受験苦から我が子三人を絞殺した母親が,罪に問われない異常な日本."人権"を唱えて精神障害者の犯罪報道をタブー視するメディア,その傍らで放置される障害者,そして,空虚な判例を重ねる司法の思考停止に正面から切り込む渾身のリポート――.

 ナルド・レーガン大統領(Ronald Wilson Reagan)の暗殺未遂犯ジョン・ヒンクリー(John Warnock Hinckley, Jr.),ロシア皇太子をサーベルで襲撃した津田三蔵,妻を殺害した哲学者ルイ・アルチュセール(Louis Althusser)――これらの事件は,精神障害を持つ犯罪者に対する責任能力の追及が行われ,結果として刑罰を科す意味がないとして免訴になった事例のほんの一部である.実際,刑法犯検挙数に占める精神障害者の割合は1%未満であり,15歳以上の人口に占める精神障害者の比率を下回っている.このような統計から,一般的に精神障害者の凶悪性を即座に断じることは難しいとされている.

 一方で,殺人や放火などの凶悪犯罪に関しては,一般人口の比率を上回るという統計も存在する.したがって,この問題においてはケーススタディエビデンスが極めて重要である.本書の趣旨は,刑罰を軽減する方向でしか作用しない「精神鑑定」の限界と,その科学的根拠の薄弱性に対して辛辣な批判を行うことにある.年間650件という不起訴処分が乱発される理由は,刑法39条における「心神喪失者の行為は罰しない」「心神耗弱者の行為はその刑を減軽する」という規定の専横にあると指摘される.このような状況に対する著者の非難は厳しく,エキセントリックに描かれている.

 著者はジャーナリストでありながら,同時に精神障害者の「遺族」として家族を亡くされた経験を持つ人物でもある.また,精神障害を抱える兄弟を持つ「家族」としての側面も持っている.報道では,精神障害と犯罪の親和性を指摘することが隠語で避けられてきた.著者は豊富な取材力を駆使し,この問題に果敢に取り組んでいる.その一方で,具体的な提言の論拠が弱い部分も指摘され.著者は「正常」な凶悪犯罪などの存在を否定し,故意に基づく凶悪犯罪に対して責任と刑罰を免れるべきではないと主張する.この主張には著者の怒りと憤りが滲み出ている.

 精神障害者の行動制御能力や事理弁識能力の喪失,あるいは減少に関する科学的見解が確立されておらず,鑑定者の主観的な意見が鑑定結果に影響を及ぼすことが問題視されている.このため,市民感情と司法の実態の乖離が解消されないままでいるのが現状である.犯罪被害の実態を正確に把握するためには,暗数調査の精度を高める必要がある.また,精神医学内部のイデオロギー対立にも注目し,これらの問題に対処していくことが,より健全な司法制度の構築に繋がるだろう.

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原題: そして殺人者は野に放たれる

著者: 日垣隆

ISBN: 9784101300511

© 2006 新潮社