▼『椿姫』デュマ・フィス

椿姫 (岩波文庫)

 歓楽の生活をなげうち,真実の恋に生きようとする娼婦マルグリットと純情の青年アルマンの悲恋の物語.何ものにも代え難いその恋さえ恋人の前途のため諦めて淋しく死んでゆくマルグリットに作者は惜しみない同情の涙を注ぐ.汚土の中からも愛の浄化により光明の彼岸に達し得るもののあることを描き,劇にオペラに一世を風靡した――.

 ゥミ・モンド(裏社交界)に生きる高級娼婦マルグリットの通り名「椿姫」は,月の25日は白椿,残り5日は赤椿を身につけたことに由来した.赤椿を付している間は,客を取ることができない.放蕩三昧の旦那は,デュマ・フィス(Alexandre Dumas)の実父アレクサンドル・デュマ(Dumas,père)の引き写し.『モンテ・クリスト伯巌窟王)』『三銃士』を始めとする作品で巨万の富を得た大デュマは,豪邸「モンテ=クリスト城」を建て酒池肉林に興じた.私生児フィスは,死去の際には破産でほぼ無一文であった父を看取ったとき,かつての栄華が見る影もなくなったことに惜別と無常を禁じ得なかっただろう.

 マルグリットと純情青年アルマンとの悲恋を描いた本書には,基底に抒情組曲のような哀しい旋律がある.この戯曲に感激し,オペラ化したジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi)は,歌劇を「堕落した女」(La traviata)と命名.娼婦とはいえハイ・クラスとの交歓を生業とする女性と,一般庶民階級に属する男性が堅実に生きられるはずはない.それが条理とされる中でのアルマンの訴えは,娼婦を普通の女性と同様に愛そうとする純な硬さ.それに対し,華美な生活の裏に賤業と蔑まれるマルグリットの猜疑心が影を投げかける.

 19世紀の未統一時代のイタリアは,ヴェネツィアやミラノにはオーストリア軍が駐屯,ローマを中心に南部はフランス軍が統括.自由主義的改革による近代化とイタリア統一へ踏み出すサルディニア王国が成立するまで,イタリアオペラの形式美と様式性は,厳しい検閲に曝され阻まれていた.本作が無難なタイトル「椿姫」で許可されなかったのは,娼婦のように堕落した女に幸福な人生を歩ませてはならない「政治的圧力」が働いたためである.すなわち,オペラの筋書きは「娼婦の破滅」と「整合的なタイトル」の一貫.政情により規定された文芸の方向性が重視されたということだ.

 1849年,25歳のフィスも本作を元に五幕の戯曲を書くが,検閲制度により上演を許されなかった.教会の門をくぐることも許されない娼婦を淑女「未満」の存在と貶め続けた慣習,不可抗力としての階級制に,フィスの嘆きが本作には籠められている.皮肉なことに,本作の舞台化とヴェルディによるオペラ化によりフィスはフランス近代劇,演劇界に多大な影響を及ぼす劇作家と認知される礎石を築いた.アカデミー・フランセーズ会員にも選出され,数々の作品を世に出したフィスだが,代表作は厳然たる意味で本作である.無常のポリフォニーが,経年の風化に耐えうるメッセージを孕んでいるためであろう.

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Title: LA DAME AUX CAMELIAS

Author: Alexandre Dumas

ISBN: 4003254015

© 1971 岩波書店