▼『「科学者の楽園」をつくった男』宮田親平

「科学者の楽園」をつくった男:大河内正敏と理化学研究所 (河出文庫)

 大河内正敏所長の型破りな采配のもと,鈴木梅太郎仁科芳雄湯川秀樹朝永振一郎寺田寅彦,武見太郎ら傑出した才能が集い,「科学者の自由な楽園」と呼ばれた理化学研究所科学史上燦然たる成果を残した理研の草創から敗戦まで,その栄光と苦難の道のりを描き上げる傑作ノンフィクション――.

 化学によって立国たらんとした国策において,純粋理化学の研究所として始まった研究機関が眩しく輝いた時代があった.仁科芳雄研究室に所属した朝永振一郎は,理研を「科学者の自由な楽園であった」と回顧している.それは,仁科がニールス・ボーア(Niels Henrik David Bohr)の下で学んだコペンハーゲン学派の精神に由来している.ボーアは,1921年コペンハーゲン理論物理学研究所を開き,ポール・ディラック(Paul Adrien Maurice Dirac),ジョージ・ガモフ(George Gamow)ら俊英を集めた.

 独創的な研究を実現するためであれば,闊達な雰囲気で討論を行い,息抜きや遊びを楽しむ.一見,浪費に思えるその時間の使い道が,研究成果に還元されることを経験的に知る寛容の精神,それがコペンハーゲン精神であった.「うまみ成分」がグルタミン酸ナトリウム――「味の素」の開発――であることを発見した池田菊苗,ビタミンAを発明した鈴木梅太郎らを生んだ時代の理研は,創設者(タカジアスターゼの発明で有名な高峰譲吉)の「模倣を脱した新たな研究」「即座の応用にとらわれず,純正理化学の研究に尽し,堅実な基礎をつくること」といった研究精神を体現しつつ,財政的な担保を得るための方策も実現している.

 渋沢栄一大隈重信の支援を受け,ビタミンA,合成酒といった主力商品を産み出した理研は,科学研究を核にした企業群,理研コンツェルンを形成した.本書は,理研シンクタンクとしての楽園的な側面を示し,同時に三代目所長の大河内正敏の功績がきわめて大きいことを明かす.財務をめぐる化学部と物理部の間にあった確執の調停.部長職の廃止に伴う主任研究員の権限拡大で,研究予算を大幅拡充し,研究員を雑務から遠ざける.さらには,発明と特許を重視する「芋蔓式経営」をリードし,産学複合体の色合いも強め,大河内は研究成果が次の研究資金を呼ぶような仕組みを仕掛けていく.

 大河内の先見性と組織運営能力は図抜けていた.もはや通説の域にあることだが,理研の創成から,戦後GHQによって「財閥解体」の対象となり,コンツェルン解体までの道のりを,本書で見取り図的に理解することができる.科学者にとっての「楽園」になぞらえられた理研の精神は,ボーアによるコペンハーゲン精神を日本の科学史に残るアレンジで実現できた奇跡である.学問の独立自由を重んじるディシプリンが,かくも高密度であった時代.もはや蜃気楼のごとく幻想的な過去である.

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原題: 「科学者の楽園」をつくった男―大河内正敏理化学研究所

著者: 宮田親平

ISBN: 9784309412948

© 2014 河出書房新社