▼『象徴表現とはなにか』ダン・スペルベル

象徴表現とはなにか―一般象徴表現論の試み (文化人類学叢書)

 エチオピア・ドルゼ族の文化を素材に,神話,言語から,礼儀作法の所作までを広く分析の対象にして,象徴表現の一般理論を提出しようとする意欲作――.

 西欧の認識論は,ルネ・デカルト(René Descartes)の提起した「外界によってもたらされる知識に対して,何が,どのように貢献するのか」ということをめぐって争われてきた.本書で扱われる象徴概念と象徴表現理論そのものは,「認識論」の理論的側面の一翼を担うものではあるが,概念そのものは定義されない.本書に与えられた使命は,以下の概念を示すことにある.

一揃いの雑多な現象(神話から言葉の文彩[あや]まで,宗教儀礼から礼儀作法の所作まで)が同じ処理による所産である経緯

 象徴についての定義を与えたフェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)は,次のようにまとめている.

象徴はまったく恣意的でないという特質をもつ.それは空ろではなく,『意味するもの』と『意味されるもの』の間には,自然な絆の痕跡が存在している *1

 象徴装置を人間精神の生得物とするダン・スペルベル(Dan Sperber)は,表立った文化の知識を暗黙裡の記号内容へ連合された記号表現であるとされる,記号学的見解の批判にまず注力する.スペルベル自身の見解は基本的に「認知」を基本にして,象徴の解釈とは表立たない知識に支えられかつ無意識の規則に従う,即興演奏であることを明らかにする.スペルベルの象徴概念の把握は,恣意的ではないという点において,ソシュールの定義と決定的な立場の差を表明してはいない.しかし,ソシュールは象徴間の項目に自然的なものを認め,そこにはコード化されていない(根拠をもっている)「本性」が前提となる.そして,反対に根拠がなく,慣習的で,コード化されたものとして「記号」をとらえた.

 象徴表現とは認知の装置である,と主張するスペルベルの観点から,彼がソシュールの見解を全面的に支持するものでないことは明らかである.まず,記号はそれ自体象徴解釈の対象とはならない.文化や意識を伝える法則的なチャンネルが,記号に与えられた一義的な意味と考えるならば,流動性をもつ文化や意識の特質を伝達する以上の役割は記号に要請されていないだろう.また,象徴と解釈は,ツヴェタン・トドロフ(Tzvetan Todorov)のいう「連帯関係」にある.象徴と解釈は,いわば1つの現象に生産と受信という2つの側面が織り成す現象なのであり,個別に検討することはできない.しかし,テクストや言説は解釈という作業によって間接的意味が見出されれば象徴になる,その見出された事実が認められれば,記号としての意味だけにとどまらない新たな意味づけが生まれる.けれども,社会的コミュニケーションの道具が象徴表現そのものを構成する機能ではないから,記号学的見解には同意しかねる,というのが,スペルベルのスタンスなのである.

 註解の加えられた象徴は,象徴の解釈を構成しないことが多々ある.礼儀作法がその典型だ.礼儀にかなう所作とは,文化の表面に形態づけられた伝統的な様式といえるだろう.しかもそれは夥しい類型に嵌められている.たとえば,食事中に“げっぷ”をすることは西洋ではタブーとされている.しかし,アラブ諸国では“げっぷ”は「満腹の意思表示」とみなされ,むしろ料理人への賛辞の一つともされている.こうした文化の差異は,枚挙にいとまがない.それが「下品」「失礼」と註解を施されることはあっても,それがなぜそのように教え込まれるかの正当性は誰にも分からない.つまり,礼儀の規則は伝統的に固定化したものを反復して継承するので,その行為と相容れない行為は,受け容れがたいものとしてサンクションを受けることになる.その合意は直観的で,それを表立たせて明示はされていない.いわば,礼儀作法は各々の文化がそれを規定するため,文化人類学者は象徴の動機付けを探ることになる.

 象徴への動機付けは簡単ではない.たとえば,一般的に,ミンクの毛皮はとても温かく,個体数の少ない動物から精製されるので,希少価値が高い,と考えるのは,希少価値を生む前提条件として,第1に(冬場をしのげるほど)「温かい」から実用性があるということ,第2に,数少ない製品となりうるから貴重であること,という了解が働いているからである.この場合,実用的で利便性があるかどうかということと,原材料の個体の多寡が価値の高さを規定する.それをどのように測るかといえば,ミンクの毛皮以外の防寒着の機能と,ミンク以外の動物から作られる毛皮の機能,そしてそれらの相対的な価値の解釈ということになる.動機付けは一般化あるいは相対化がなされる場合にのみ,有用なのである.なぜ,象徴への動機付けが困難化という理由は,ここにある.象徴に相対化は不可能だからだ.

 ストロースはこの問題に,『野生の思考』で2つの例を引いている.オセージ・インディアンによれば,鷲は「稲妻に,稲妻は火に,火は石炭に,石炭は大地に」連合する.したがって,鷲が〈大地の〉動物であるわけは,それが「石炭の支配者」のひとりだ,ということにある,という.しかしこの結論に至るには,オセージ族でなければ不可能である.ある特性があるから,論理的な帰結として象徴が現れる,という一般的な理解が通用しない一例であろうか.

 ここから導かれる重要な結論は,第1に,象徴の動機付けは超[メタ]象徴的ではなく,それ自身象徴的であること,第2に,この動機付けは象徴の解釈ではなく,反対に,それ自身象徴として解釈されなければならない.では,象徴的構成体は社会的実在にどう作用していると考えられるだろうか.社会的相互作用(実践)から,ナラティブは派生するのか,あるいは言語から派生するのであろうか.カール・マルクス(Karl Heinrich Marx)の言語観をみてみよう.

 実践,意識,イデオロギーが相互方向的に作用し,さらに,言語はイデオロギーと実践の間に生み出される.言語によって,抽象化と理論化が可能になるのだが,記号論的構造仕儀が登場してくるまでは,言語の役割が社会的実践において焦点化されることはなかった.言語理論がなければ,すなわちイデオロギーが理解できないというマルクス思想主義のジレンマを,明らかにしていた.マルクスにとっては,言語は社会的実践の構成力ではなく,社会的実践の産物だったのだ.

 象徴を意味論としてとらえる場合,概念のコード化された「記号」を考察する必要がある.この点,象徴現象を記号とみなさず,その解釈と組み合わさったコードでもあり得ない,象徴の解釈は意味作用をなさないと強弁するスペルベルは,記号学の終焉をも匂わせる.記号は制度的な基盤の上に現れ,繰り返し使用されれば堆積され,記号の位置する基盤は変容する.文化が歴史的な変化をたどるように,記号もまた変遷をたどる.この記号論を文化研究に応用し,文化自体を記号体系とみなしたのは,ウンベルト・エコ(Umberto Eco)である.エコはスペルベルとまったく違い,記号を意味論的にまで拡大し,文化の単位は,記号の内容と表現の単位に結びつくと考えた.

例えば,mouseとratは,2個の内容形式上の単位であるが,それぞれ小さなネズミと大きなネズミという,2個の内容実質上の単位と対応している.いかなる文化項目も,その意味論的な場の他の項目とそれとの関係からその意味を獲得する.…中略…こうした事項のひとつひとつが今度はまた別の事項を生成し,各々の記号論的項目の意味が,その他の記号論的単位との体系的な関係や対立によって確定される *2

 記号論的なパースペクティブは,記号そのものの曖昧さ,多義性の上に成り立つ.エコの提案する記号論的分析は,イデオロギー体系の論理構造を解きほぐし,他の記号の意味論的な位置を確かめるのに寄与するだろう.象徴の表れと解釈されるものは,記号を介すことで,象徴とマルクス主義のいう社会的実践の距離と差異を相対化する.超越的な原理の現象を説明し,意味づけを行う意図が働いている時点で,拡散的な方向性は否応なく収斂されていく.象徴の解釈とはその制約を加える行為にほかならないのである.

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Title: LE SYMBOLISME EN GÉNÉRAL

Author: Dan Sperber

ISBN: 4314002522

© 1979 紀伊國屋書店

*1 Cours de linguistique générale, Ferdinand de Saussure ; publié par Charles Bally et Albert Sechehaye ; avec lacollaboration de Albert Riedlinger -- Payot, 1968,p.101

*2 Structuralism: an introduction, edited by David Robey. Oxford, Clarendon Press, 1973,pp.57-72